病院の朝は早い。肋骨を3本折り、肩の脱臼と左手の裂傷。軽い脳震盪。と診断を下された僕は点滴で栄養補給をすることはなく、普通の食事が許可されたが、六時半に検温に来られぼんやりしている中煙草も吸えず七時に朝食。まあ、息を吸いこむと体がきしむのでタバコはしばらく味わえないようなんだけど・・・。折れた肋骨の個所が悪いらしく、入院期間は完全に3ヶ月。経過後検診で退院。だそうだ。ぼんやりしていると、面会時間開始直後あたりから次々と部下たちがやってきて、僕はその指示をしなければならないので口と頭だけは忙しい。それでも誰も来ないと、ぼんやりと窓の外を眺めた。今は桜は散ってしまったが新緑の季節。若葉が生い茂り、命も輝いて見える。柔らかそうな風が吹いていて木々が軽く揺れて・・。無地のカーテンが風の悪戯でふわりと舞い上がり、穏やかさを増幅させた。あまりにも暇なので、千葉君に手紙の束を持ってきてくれるよう頼んだが、金属センサーを注文しそれが届いて安全が確定したら。といわれてしまった。
「ふぅ・・。ひ・・ま・・。」
ため息をつき、呟いてみるがそのため息でさえ体が痛む。差出人の書かれていないものには注意をしていたはずだったが、何であの時気がつかなかったんだろう・・。剃刀入りの封筒も何て古風で・・。情緒深い。
「高塚さん、お昼と、お薬ですよ。」
ナースキャップを被った若い女性がそう言いながら、足元に下げていた机の上に膳を置いた。まだ自力で起きあがれない僕はベッドを上げてもらい体を上げる。僕の担当は、早田セリナさんという方で、看護師になって4年だという。暇そうな僕に何度かそんな話をしてくれた。
「早田さん、暇・・。」
「あら。仕方がないじゃないですか。高塚さんがここに来られてまだ一週間ですよ。三ヶ月は居なきゃならないって聞きましたよ。」
「うん。そうみたいだね。医学のことは良く分からないけど、折れた場所が悪いとか・・。」
「でも、ご飯が食べられて幸せですよ。高塚さん、何かご趣味はないんですか?」
てきぱきと食事の用意をする良く動く体。全体的に単一の服なので、周りの壁と同化するようなしないような・・。顔だけが浮いて見えることもあり、時々驚く。
「趣味・・か・・。」
「ええ。本がお好きなら、ジャンルを指定してくれれば持ってきますよ?」
笑顔の彼女に、右手に先割れスプーンを握らされた。恥ずかしながら、右手で文字は書けるのに箸が握れないのだ。スプーンすらも綺麗には持てず、握り締める。子供のようにして食べるのであまり食べる姿を見られたくない。僕はまだ、すすり込めず飲み下せない。だから補助が必要で・・・。
「本・・か・・。」
「ええ。あ、子供たち用には落書き張と色鉛筆がありますけど、はい。口開けて。」
満面の笑み・・。今日のメニューは、短い麺のうどん。
「あの・・さ・・。」
「恥ずかしがってる場合ですか?」
軽く小首を傾げられ、それでも目の前にある箸と短い麺。
「あ、後で食べるよ。」
「絶対に食べないから駄目です。はい、あーん。」
しぶしぶ口を開けると、うどんが口に入る。噛まなくても支障がないような麺だが、飲み下すにはできるだけ小さいほうがいい。普段あんまり噛まないせいか、食事の時間は疲れる・・。
「はーい。お終い。」
口元に垂れた汁などを軽く拭き取って貰いつつ、やっと終わったと頭を垂れた。
「お代わりは・・いりませんよねぇ・・。」
僕は黙って頷いた。なんとなく、屈辱的だ・・。
「これ下げてきますね。何か持ってきますよ。」
「うん・・。」
力なく返事をしつつ、彼女を見送った。悪癖。というものは・・そう簡単には抜けない。食事の後にはタバコが吸いたいのだ。一口でも、くゆらすくらいでもいいのだが・・。苦悩の末。欲望が勝った。隠していた煙草を取り出して一本口にくわえ、火をつける。思い切り吸いこむことはできないので、小さく吸った。全身に及ぶような激痛・・。タバコの先から上がっていく紫煙を見つめつつ、美味いような不味いような・・煙を口に入れた。
「た、か、つ、か、さ、ん。ここは病院。あなたは患者さん。」
早田さんを見ないように彼女とは反対側を向く。
「せめて、自分で起きあがれるようになってから楽しんでください。」
「・・。」
「高塚さん?」
「もうちょっと・・。」
「言うこと聞いてくれないと、箱ごと没収しますよ。」
「泣くよ?」
「どうぞ?はい。これと交換してくださいね。」
机に落書き張と12色と書かれた色鉛筆のセットが置かれ、咥えていたタバコはとられた。
「足に力が入るようになったら、車椅子で喫煙所まで連れていってあげますから、我慢してください。」
「いつ頃予定?」
「さぁ。回復次第ですよ。」
彼女は本当ににっこりと微笑んで部屋を出ていった。僕はしばらく何も考えず落書き張の表紙に書かれている犬のような動物をながめていたが、気がつくと窓の外を見ていた。右手で鉛筆を握り、窓、カーテン。その外の木々。遠くに見えるビル。・・・。夢中で描いていた。何の音も聞こえず、ただまっすぐに外を眺めながら・・・。


 もう、風呂に入る許可を貰っているが、昨晩熱を出したから。と早田さんは暖かい濡れタオルで僕の体を丁寧に拭ってくれていた。熱を出したことは良く覚えていないが、寝汗をかいていたので夢見でも悪かったんだと思った。・・まあ、その夢も覚えていないんだけど・・。
「もう、梅雨も終わりですかねー。あっつい夏が来るなぁ。」
あーあ。そう、彼女は嫌気を出した。
「夏、嫌い?」
「うーん。あっついのは・・苦手かなぁ。高塚さんは好きですか?」
「うーん・・・。水遊びは好きだなぁ。川とか、・・きらきらしてて綺麗だしね。」
彼女は不意に、ジーっと僕の目を見つめた。僕の体を拭っていた手も止まる。
「何?どうしたの?僕、変なこと・・言った?」
「綺麗だなぁ・・って。」
「え?何が?」
「高塚さんの瞳の色。緑のような、青・・。色が深いから、黒だと思ってた。」
「そうなの?僕には分からないけど・・。」
しばらく彼女と見詰め合っていた。彼女の瞳に映る僕の目。違いなんて分からない。
「コホン。」
一つ咳払いが聞こえ、僕は左にあるドア側を見た。そこには腕組みをしたナツキさんが呆れ顔で壁に寄りかかっている。
「ナツキさん。来てくれたんだ。」
彼女・・。早田さんはすぐにタオルを片付け、一礼して部屋を出ていってしまう。それを不思議に眺めるとナツキさんはコツコツとヒールの音を鳴らし近づき、でこピンした。
「・・痛いよ。」
「なぁに鼻の下伸ばしてるのよ。スケベ。」
「体を拭いてもらってただけだよ。」
「嘘よ。今にもキスしそうだったくせに。」
「・・。」
丸椅子に腰掛けながら、彼女は少し口を尖らせた。
「ん?妬いてるの?」
「私は君じゃないわ。」
「どう言う意味かなぁ・・。」
ぷいっと横を向いている彼女の頬に触れ、僕のほうを向かせた。目を見つめて・・そっと近づく。彼女は僕の手に触れながら僕を受け入れた。おでこ同士をくっつけ唇を離す。
「服、着なさいよ。」
「ナツキさんが着せて。」
「これじゃ届かない。」
「僕は・・届くよ。」
ゆっくりと彼女の体を抱き寄せ、またキスを交わす。首もとに唇を寄せて軽く吸うと、彼女の手が僕の裸の胸に触れて・・。
「あーー。キスしてるぅー。」
「いちゃいちゃしてるよー。」
「甘えてるんだよ。」
子供の無邪気、とは思えないような発言が聞こえ、僕の体は思い切り押された。離れられたはいいが・・。
「い・・たい・・。酷いよナツキさん・・。」
激痛と、咽かえり。なんとなくくっついた骨がまた折れるかと思った。
「あっ。ごめん、泰生。だいじょう・・ぶ?」
「な・・なんとか・・ね。」
僕はゆっくりと呼吸を整えなおした。彼女は僕の寝巻きをたくし上げて、子供のように服を着せられる。ベッドに集まる子供たちはなんだかニヤニヤと笑っていて、何を言われるかが怖い。
「おばちゃん、美人だね。」
「ばかっ。お姉ちゃんって言うのよ。」
「えー。おじちゃんの恋人なんだから、おばちゃんじゃないのー?」
真剣な顔で言い合う子供たち。僕は思わず吹き出し笑うと、彼女はにっこりと微笑んだ。
「そう、おばちゃんよねー。でも、美人って言われるのは嬉しいなぁ。」
「おばちゃん、幾つー?」
「結婚してるの?」
「え?それって、おじちゃんの恋人じゃなくて、奥さん?」
口々に言い合う子供たちは本気である。僕は笑いのツボにはまってしまい、肩を揺らして笑うとナツキさんに睨まれた。
「あ、ああ・・。今日は何しにきてくれたんだい?」
笑いを堪えつつ、子供らの意識を変えようとしたが、彼らにとって新しいものに執着するのはおかしいことではない。最終的に、彼女が僕の奥さんか恋人かを聞き迫った。
「どっちだと思う?」
「奥さんっ。」
「彼女だよー。」
これ以上言い争わせると本当に喧嘩になってしまいそうで、僕は彼らの頭を撫でた。ちらりと彼女の顔を伺い・・。
「まだお友達。」
「キスしてたのにー?」
「それは大人の都合。」
「ずるーい。」
「分かるまで待とう。さぁ、君たちの都合を教えてくれないか?僕の元に何しに来たの?」
「あ。僕ねぇ。青い車の絵をかいて欲しくてー。」
「ん?青?青ってどれ?」
色鉛筆セットを取り出し、彼らに見せるとこれだよーっと一本をとりだし掲げて見せる。
「ほら、青ってかいてあるじゃん。」
「ああ。本当だね。それで、どこが青なのかなぁ。タイヤ?」
「違うよー。まわりっ。乗るとことかー。」
各自持ち寄った画用紙に絵をかいていく。話は逸らせたけれど・・。ナツキさんの顔は見られなかった。子供たちが飽きて帰るまで、彼女は彼女なりに子供と話をし、ようやく彼らが部屋から出て行くと沈黙が続く。それをふと途切れさせたのは彼女、ナツキさんだった。
「泰生、絵なんて描いてたんだ。」
「・・うん。時々、ね。」
「私・・。知らなかったなぁ・・。八年も・・付き合ってるのに。」
「もうそんなになるかな・・。」
「そうね。なるわ・・。私、君について知らないことばかりね。」
「僕だって、ナツキさんを全部知ってるわけじゃ・・。」
彼女を見ても。彼女は僕を見てくれない。俯いたまま顔を上げてはくれない。
「帰る・・ね。」
すっと立ち上がり、僕は・・・。呼び止められなかった。ただ見送るしかできなかった。彼女はきっと、僕と彼との境界線を見極めたのだろう。僕はそれを悔しいと思ったが、言葉よりもため息しか出ない自分に少し苛立ちを覚え、ベッドに伏せた。