見れば見るほど、彼女ではないような気がしてならない。化粧も薄付きで、なんとなく素顔に近い。ソファに体育座りをする足元。決して履かなかった靴下を履いている。
「あ。おみやげ。定番のチョコレート。ここに置くね。」
「あ・・ああ・・ありがとう。ねえ、どうしたの?その・・髪。」
「切ったのよ。オーストラリアで。あの後ね、とし君に怒られたわ。それで、ケジメ。君が長い髪が好きだって言うから伸ばしてたのよ。」
軽く髪を書き上げ、揺らして見せる。僕はダイニングテーブルの椅子に腰を下ろした。
「ごめんね。幸せな日に怒鳴ったりして。」
「ううん。私が悪いの。彼に言われたわ。君が怒鳴る意味と私の意味は違うって。」
「そう・・かな・・。」
「うん。何て言っていいか分からないけど、ニュアンス的にはそんな感じ。前に、君、私が憎いって言ってたでしょ?とし君、あなたのことは憎くないって。でも、君と同じに私を憎むことは出来るって。それが男の考えなのかなぁ・・。」
「・・さあ。それは・・。」
僕の考えでもないよ。そう言いかけ、言葉を飲んだ。彼女はそれで満足している。僕が今茶々を入れれば、また意見が変わるのだろう。静かに笑う彼女に、また・・涙は流させたくない。彼女らがいない一週間。僕は家に帰ると、絵を描いていた。A4ほどの小さなカンバスに、吐き出し窓から見えるベランダの外の景色。一度だけ、彼女とここに居た。安いシャンパンを手に、ずっと眺めていた景色。青紫。そう書いてある水彩絵の具を使い、僕の分かる最大の濃淡を使いこなして夢中になって描いた。敬愛と祝福。そして少し、嫌味を込めて。
「ねえ、楽しかった?コアラは抱けた?」
「うん。順番待ち長かったけど。君の顔がね・・。浮かぶの。切なそうな顔が、時折脳裏に浮かんだの。だから、楽しんだのは半分くらい。」
「そっ・・か。ごめんね。本当に。僕なんか忘れて楽しんだら良かったのに。」
「君は忘れられたの?一週間。私を思い出しもしなかった?」
「思い出したよ。ナツキさんはずっと、僕の中で泣いてた。だから、笑ってもらえるように絵を・・描いた。今のところ、僕はそれしか出来なくて、お祝いも考えられなかった。お土産のお返しって事で、受け取ってくれないか?新居の隅にでも、飾ってくれれば嬉しいな。」
嘘心と本心半分。ソファの傍の壁に裏向きで立てかけたカンバスを持ち上げ、ゆっくり返して彼女に見せる。彼女は目を丸くさせ、息を呑みこみ・・。嘘・・。そう、口を押さえて呟く。
「何・・これ。」
「え?駄目?気に入らなかった?」
「ううん・・。凄く・・綺麗。泰生、こんなに絵が上手かったの?凄く素敵。綺麗・・。」
「技術だけは、たくさんの先生に習ったから。全部は手に入れてないけど、技法・・。」
「そんなんじゃない。君の・・。これは君のセンスよ。習ったからって描けるものなんかじゃないわ。凄い・・。こんな間近に、こんな人材が埋もれてたなんて・・。」
彼女はソファから飛び退くと、僕に近づく。そしてゆっくりカンバスを手にとってしげしげと眺め、溜息をつきながら壁に立てかけた。
「はるな・・。」
「ん?」
じっと僕をみつめあげ、彼女は突然飛んで僕の首にしがみ付く。僕は慌てて彼女が落ちないように腰を支えた。改めて言うが、僕は190センチ近くの身長で、彼女は178センチ。大柄な二人だが20センチ強の身長差はあり・・。
「泰生、素敵。見直し・・ううん。尊敬するわ。」
「いや、見直してくれたほうがいいな。」
「じゃあ、・・見直す。・・ん・・。」
彼女は・・・・。目を閉じた。唇を尖らせキスをねだる。僕は、彼女の頬に軽く唇をあてた。
「挨拶はこっちだよ。」
「・・・ふ・・ふふふ。」
僕の首にぶら下がりながら、彼女は笑う。胸に耳をぴったりとつけて軽く笑った。
「馬鹿ね、泰生。してくれたら続いたのに。」
「・・ぼくは、もう。ナツキさんが悲しむ顔を見たくないよ。こうしてくれるだけで嬉しい。」
彼女の体をぎゅっと抱きしめた。体のラインが手に取るように分かる。
「好きだから、もう・・しない。」
「初心な子を口説いてるみたいね。」
「今更?別れたら今度はちゃんと口説くよ。君を愛していたらね・・。」
彼女は床に足をつけた。体重を感じなくなり、僕は彼女の腰から手を離す。が、彼女は僕のシャツを引いて・・。
唇を重ねた。アメリカの映画のようにお互いが唇を吸いあい、求め合う。だが、僕が彼女の方を掴んで引き離した。体が、心が。僕は前身で彼女を求めてしまう。
「不倫ってさ。裏切りって言う・・犯罪だよ・・ね。」
自分を納得させようと呟いた。彼女はふっと柔らかく笑い、目を伏せ・・。僕の胸に手を当てて寄り添う。今まで長い髪で見えなかったうなじが・・背中の細いラインが見下ろせた。愛している女を目の前に、手を出さない男が何人いるんだろう。善意や道徳心。悪い事。してはならないこと。どんな危険であろうが、その誘惑に打ち勝つ男は・・いるのか。頭が真っ白になった。何も考えられず、ただ無心で彼女を抱いた。唇を吸い、肌を貪ってあらゆる場所を触れて・・焦らして・・。熱い吐息が途切れるほど一つに繋がって肌を重ねた。背中に爪が食い込む。快感に身を委ねる顔。艶も色も通り越し、ただ切ないほどいとおしかった。彼女の奥深くに果て、髪をぐしゃぐしゃにかきまわされ・・。衝動という誘惑に打ち勝てなかった後悔が胸を突き刺す。僕は僕の行動が許せなかった。口だけだった。張り裂けそうな胸の痛み。涙が溢れて止まらない。
「ごめん・・ごめん・・ごめん。僕は・・さいてーだ。ごめん・・・。」
「ケジメ・・。」
「・・ごめん・・。」
「私がつけたかったの。私が擽ったから、君が堪え切れない場所を私は知ってて突ついたの。私の方こそごめんなさい。これで最後。もう誘惑しないわ。ケジメをつけさせてくれてありがとう。」
「ナツキ・・さん・・。」
「ほら、泣いてないで!!明日、会社で会ったら私達は無二の親友。・・ね・・。出来る?」
子供をあやす様に・・。僕は抱きかかえられて髪を撫でられた。
「君、意外といい体つきしてるのね。全裸を見たのは始めてだわ。」
あっけらかんとさっぱりと。彼女は裸体のまま、テーブルに転がっているタバコを目指して歩き一本抜き取ると口にくわえた。僕にその箱を投げつけると、紫煙をふかしライターも放る。見ればみるほど絵にかいたような綺麗なボディーライン。そのままモデルでもして欲しいくらいだ。
「そう・・だっけ・・?」
「うん。始めての時は私が君を襲ったんだけど、私、酔ってて良く覚えてないのよね。泰生、君何か運動してるの?」
「運動・・?してるといえば、個展の展示会場作りの手伝いだけだよ。もともと筋肉つきやすいし・・。」
「会場作りだけで筋肉つくの?・・とし君にもやらせようかな・・。あの人、私より餅肌っぽいのよね。嫉妬するくらいツヤツヤ。毛の一本も生えないんじゃないかしら。」
ふっとタバコを一吹きし、彼女は散らかる服をかき集めた。
「シャワーは?」
「ううん。いいわ。君が入って。出る頃には私、着替えて消えてるわね。素敵な絵と思い出をありがとう。」
脱ぐ姿は見せてくれるが、服を着る姿を見せてくれたことは少ない。服を抱え、彼女は僕の寝室に入っていった。僕はゆっくりと立ちあがり、バスルームに足を向ける。シャワーコックを捻り、最大量のお湯を出した。彼女が帰る音を・・。かき消すために。
 貰ったチョコレートは激甘で、コクが無く。形ばかりに凝った、まさしく。おみやげ物だった。



 「高塚室部長、おはようございます。今日は、壬生駿一郎様がお見えになられる予定ですが、いかがなさいますか?」
「え?誰が・・来るって?」
朝一番に会う秘書課の桜坂君がコーヒーを机に置きながら手帳を眺めた。どうやら彼女らは、月一で交代するようだ。スマートで上品なスーツ。後頭部で丸めた髪。誰かさんとは違う、上品なっ・・て言ったら怒られそうだが、魅力がある。
「壬生俊一郎様です。絵画部門公式評議委員委員長及び、批評家。とうたわれている・・。」
「嘘・・。何しに来るわけ?」
「国内最優秀作品の選考について、取材を受けてくださるそうですが。御好意があり、こちらに出向いてくださるそうですよ。如何なさいましたか?」
「僕・・彼、苦手なんだよね。何時に来るの・・?」
「社長と会食も兼ねているそうなので、11時過ぎには見えられるかと。」
彼女はくすっと軽く笑った。
「室部長にも、苦手な方って居るんですね。」
「そりゃ・・たくさん居るよ。その中でも彼はトップクラスの苦手度合い。写実家なんだけどね。建築家の設計図より正確な距離感が・・・。」
昔、散々絞られたことを思い出して頭を振った。僕は人と、前後左右間隔も違うらしいから散々指摘を受けた。彼は写真より正確な絵が好きなのだ。そして、それを描きこなすある意味天才。
「嫌だなぁ・・。僕、会わないように逃げようかなぁ・・。」
「10時30分から、企画課主催の会議が開かれますよ。オピニヨンリーダーとして良かったら来てくれと誘われてたんじゃないですか?」
「うん・・・。企画課・・だろ?」
一ヶ月。僕らは顔を合わせていない。会わせ辛いんじゃない。時間が・・合わないだけ。
「ええ。壬生様とは会わずに済むんじゃないですか?」
「うん・・。僕、帰ろうかなぁ・・。帰りたいなぁ・・。帰っちゃおうかなぁ・・。」
嫌気が差していて、出勤してきたばかりだというのにタバコをくわえた。
「珈琲。冷めてしまいますよ?」
「ねえ、桜坂君。帰っていい?」
「私の一存では決められませんわ。でも、早くお決めにならないともう10時20分ですよ。」
「う・・・。」
机に肘をつき、唸った。唸ったところで、何が変わるわけでもない。珈琲を口に運びつつ、くるりと椅子を回転させた。窓の外。どんよりと曇った空。もう11月も半ばにさしかかっている。
「じんぐるべーる、じんぐるべーる。すっずがーなるぅー。って、もう流れていたね。」
「クリスマスソングですか?そうですね。」
「ここは滅多に雪、降らないのにね。サンタさん泥だらけ・・。」
「ふふ。室部長?現実逃避もいいですけれど、お時間ありませんよ?」
「うーん・・。」
決めかねていると電話が鳴った。ちょっと、苦手な人が来るというのでその人からじゃないかと内心びくびくしながら受話器を耳に当てる。
「はーるーなぁー。来てくれないの?来るもんだと思ってみんな待ってるのよ?」
「・・な・・。ナツキ・・さん・・。」
「何驚いてるの?来るの?来ないの?」
「・・行く。行きます、行きますとも。はいはい。行けばいいんでしょ?行く、行きますよ。はぁーあ・・。」
「何よそれ。溜息までついてどうしたの?早く来てね。上に来れば分かるわ。」
「・・はいはい。」
何だかいい加減に答えた。久しぶりの声に、本当は嬉しいくせに。・・・・。馬鹿だな、僕。
「行ってらっしゃいませ。では、私は戻ります。何か誤用があれば申し付け下さいね。」
「・・うん。」
僕はなんとなくうきうきしつつ、・・重い腰をあげるかのようにして立ちあがると部屋を出た。喧嘩別れでもない。今度顔をあわせたら無二の親友。・・・。階段を上がり、長い廊下を見渡すと一部屋のドアが観音開きに開いていた。近づくと、ナツキさんが身を乗り出す。
「あ。来た来た。ねーちょっと、話があるんだけど。」
「何?」
彼女は僕の腕を掴むと、部屋に入り一番壁際の机に付き、パイプ椅子に僕を座らせた。ポケットから一枚何かを取り出すと机に置く。それは写真で・・。そう、僕が描いた絵を撮ったものだ。
「夏目課長、会議・・。」
「ちょっと待って。」
振り向きつつ言い放ち、また向きなおすと今度は僕の顔をじっと眺めた。それも・・相当近い距離で。
「ねえ、泰生。君、画家になりたかったのよね?」
「う・・うん。そうだけど。」
何だか取調べを受けているようだ。ここにライトがあれば完璧・・っぽい。
「じゃあ、いいわね?」
「え?何が?」
「これ、プレゼンするの。わが社の埋もれた逸材っ・・って感じに。来年、大きな絵画展あるでしょ?その・・。」
「嫌だ。」
「まだ全部言ってないわよ。」
「出品するって言うんだろ?嫌だよ。」
「何で?」
「僕らは選考委員になるんだよ?それが身内から出品して、万が一その選考の中に入ったらどうなる?画家になろうとしてその登竜門に応募して、関係者が受かりました。何てありえないだろ?」
「いいじゃない。」
「良くないよ。」
「話題作りにはいいわ。」
「よくない。それに、僕はそんなイカサマみたいな事は嫌だ。話題は社内だけ。世間からは非難が上がるよ。僕がこの会社に入る前に、絵画で何か賞をとっていたなら・・。」
「あるの?」
「ないよ。出品したこともない。」
暫く・・にらみ合っていた。
「君が反対してくれることは非常にまずいのよ。」
「何が?」
「私のプレゼンが無くなるの。」
「知らないよ。」
また数秒睨みあっていた。部屋の前面に居る人が軽く手を上げ、僕はその動きをみる。
「室部長、課長。まだですか?」
「まだよ。ちょっと待って。」
怒り加減に言葉を返す彼女。僕はふと、ズルイことを考えた。僕は部長。それも、編集部全てを率いる存在。ナツキさんは課長。企画部の課長・・。
「じゃあ、いちぬーけた。いいよ、ナツキさん。プレゼンしても。」
僕は大きく背伸びをした。
「え?本当?」
「うん。いいけど、もしその案が通っても、僕は許可しないからね。」
「え??なによ、それー。ズルイじゃないっ。」
「ズルイかもしれないけど、僕は部長。部屋を貰ってるから室部長じゃなくて、編集室全てをもってるから室部長。僕の権限一つで採択できる立場。夏目さんは企画課の課長さん。」
「ちょっ・・。そー言うときだけナツメって言う?ふつー。」
「どう言われようが今の現状、変えられません。」
僕は立ちあがると部屋の扉まで歩いた。
「僕は所詮意見役。何かあったら、会議後に僕の部屋まで来てね。バイバイ。」
「ちょっとはるなーー!!職権乱用よー。」
悔しがる彼女に軽く手を振った。たまには使ってみるのも・・悪くない。