会議室を出て、階段の踊り場に曲がろうとしたら小さな人にぶつかった。ポニーテールをリボンで巻いた女の子だ。何か急いでいるのか、すみませんの言葉も小さく廊下を走っていく。怪我がなければいいや。と彼女を見送ると、僕が出てきた会議室の入り口に立った。
「す、すみませんっ。高塚室部長はいらっしゃいますか?」
ハアハアと息を切らしつつ声を張り上げる。
「呼んだー?」
僕が声をかけると彼女は会議室のほうに頭を下げ、僕の元に駆け寄った。
「どうしたの?そんなに急いで。」
「は・・・はあ・・。私。・・受付の・・。」
「まあ、息整えなよ。」
彼女は深呼吸を何度か繰り返すと、胸に手を当て強く目を閉じ、開いた。そして僕を見上げる。首が辛そうだったので僕は腰を落とした。そうすると、彼女は僕を見下ろす。微妙な身長だ。
「落ち着いた?何?」
「はい。すみません。私、受付の北条ひみこです。」
「どうも。」
「あの、高塚室部長なら・・判るかもって先輩が・・。」
「ハア・・・。何が?」
「あ、はい。それが・・。とにかく、ロビーまで来てくださいっ。」
彼女は突然僕の手を握ると、階段に向かって走り出した。ここは五階。ロビーって言ったら一階・・。全部、それも階段で下りる気ですか・・?ちょこまかちょこまかと動く足。走るって言っても、歩幅の違いは歴然・・。僕は面倒になって、彼女の腰を両手で掴むと持ち上げた。僕は手すりに腰を下ろす。そのまま滑り降りると甲高い悲鳴が・・たぶん、会社中に響き渡ったことだろう。僕は耳鳴りがする。一階に着き、彼女を床に下ろした。唖然としている彼女の顔。目の前で手を振ってやると、はっと気がついた。
「五階に居たんだから、エレベーターあるでしょ?使おうよ。」
「・・社員は使ってはいけないのではないのですか?」
「そんな規則はないよ。それで、一階に来たよ?」
「あっ。」
彼女は僕を置いて受付に走っていき、何かを持って帰ってきた。僕を連れて行けばいいのに・・要領の悪い。
「これ、見てもらえますか?」
彼女が差し出したのは・・また、写真だ。それも・・どこかで見たことがある・・・。
「これが・・何?」
「あの、壬生きゆさんという方が、この絵を書いた人を探しているんだそうです。御存知ありませんか?」
ありますとも。その絵は僕が描きました。二年ほど前の夏だったか・・。ある美術館に行った帰り、喫茶店から外を眺めていて、思わずアンケート用紙の裏に描いたものだった。初老の女性とお孫さん・・かな。二人が嬉しそうに遊んでいる姿。描き終わり、ぼんやりしていたら本人達が喫茶店に入ってきて絵を見て、欲しいといわれたのであげてしまった絵だ。だが、・・。僕が苦手とする姓と同じ姓。全くの偶然なら・・。
「あのー・・。高塚室部長?」
「え?・・。あ・・。し、知らないって・・。伝えてくれるかな?」
「あ・・はい。そうですか・・。」
彼女自身が思いきり肩を落とし、写真を手に思い足取りで帰っていった。北条ひみこさん。ありがとう。要領悪いなんて思ってごめん。その、壬生きゆさんに会わずして帰れる・・。そう、階段に向かおうとした時。僕は天敵とも思える人の声を・・聞いてしまった。体が硬直し、逃げることもままならない。それほどにまで僕は彼に可愛がってもらったのだ。
「おお。きゆ。どうだ、居ただろう。」
受付のある場所から離れているにもかかわらず、木霊するように聞こえる声。返事は聞こえない。
「居ないだと?そんな馬鹿なことがあるか。おい、お嬢さん。高塚泰生を呼んでくれ。まさか、辞めたのか?」
僕は逃げたかった。階段の手すりを握り、ただ一歩でも上ることが出来たならば僕は・・。カツコツと足音が聞こえ、それは不意に立ち止まる。
「あ。高塚室部長。お客様がお呼びです。」
お客様向け発音の、北条ひみこさんの声。さっき謝ったものを返してくれ。居ないから。そう言い、逃げたかった。が、言おうと振り返ると仁王立ちする羽織袴の姿の男がニヤリと笑う。逃げる機会を完全に失った。
「やあ、先生。お久しぶりですね。お元気そうで何よりです。」
「ほほうー。お前、俺から逃げようとしていたんじゃないか?」
ごつごつした手が僕のネクタイを掴むと、問答無用とばかりに引く。彼は身長185センチ。がっちりとした体躯で、貫禄があるため僕より大きく見える。引っ張られるので、嫌々ながらにも受付の前に連れて来られた。
「きゆ。この男だろう?」
後頭部を掴まれ、背の小さな御婦人の前に顔を近づけさせられた。シワの深い細い目が、小さく開く。
「ええ。そうです。このピーコックブルーの綺麗な目。座っていらっしゃったから分かりませんでしたけど、背の高い方なのねぇ。」
穏やかな口振り。着物の上にショールのようなものを羽織っていて、上品だ。僕は先生の奥さんがいることすら知らなかったし、彼が結婚していたことも知らない。しかし、何でこの豪快な彼に・・清楚な奥様が連れ添うんだろう・・。奥様が僕を確認すると、先生は僕の頭から手を退けた。
「ごめんなさいね。私、この絵がとっても綺麗で、大好きだったの。ほのぼのしてて、柔らかな光が見えるようで・・・。でもね、孫が悪戯をしてしまって破いてしまったの。不躾でごめんなさい。わたし、この絵をもう一度・・描いて欲しくて、あなたを探してたの。」
「と、いうわけだ。高塚、描けるな?」
じっくりと睨まれ・・。奥様にはみつめられ・・。描けません。何て言えるような雰囲気ではなく・・・。
「あの・・。すみません。僕、これと同じ絵を描けっていわれても・・。」
「ああ、やっぱり・・。残念ねぇ・・。写真もこの一枚しかなくて・・。」
写真は焼き増しできます。何て言ったら先生に殺されかねない。凄い形相で睨む彼。僕は顔ごと視線を逸らした。
「高塚。お前・・・。俺の頼みも聞けないのか?」
「先生。頼んでませんし・・。」
太い腕が僕の肩に回る。肩を抱かれ、その先の掌が拳に変わり・・。
「画材がなければ買ってやろう。」
「要りませんよ・・。描けないんですから。」
「描かないんじゃないのか?」
「描けないんです。だったら先生がその卓越した写実技術で写したらいいじゃないですか。写真、拡大コピーしますよ?老眼で見えないのでしょう?」
「ふっ・・お前、言うようになったもんだなっ!!」
老人とは思えぬ速さでコブラツイストをかけられ僕は悲鳴を上げた。
「イタイイタイイタイタタタッ。やめ、やめて先生っ。イタイタイイイッ」
「描くか?」
「描けないっ・・ってーっ。」
「おやおや。到着が遅れていると思えばじゃれていたんですか。」
「おお。社長か。」
ぱっと技を解かれ・・。体・・もげるかと思った・・。先生はプロレスがお好きだ。何度テレビに付き合わされ、画面と同じ技をかけられたか・・。絵の技術指導より、そっちの記憶のほうが鮮明だ。先生は社長と秘書に挟まれ、また大声で喋りながら玄関を出ていった。一軒、普通そうに見えた御婦人だが、小さく肩を落として溜息をつく。写真を手にとり、俯いた瞬間。写真の上にぽたりと涙が落ちた。
「あの・・。本当に、その絵はもう描けないんです。似せて描くことは出来るんですけど、・・その、線の色を覚えてなくて・・。でも、似せた絵なんかで・・。」
「あなた、この色が見えないの?」
そっと涙を拭いつつ彼女は僕を見上げた。
「はい。その絵を本当に、全く。一本の線も間違わないように模写することは先生に教わってますから、可能なんですが、その時の心は同じでないので、受ける印象が変わるんです。たぶん、出来あがってもがっかりしますよ。だから僕は、同じ絵を描けといわれても描かないんです。」
「そうなの・・・。」
「すみません。御期待に添うことが出来なくて・・。」
「ううん。いいのよ。あなたに会えて、お話が出来ただけでも嬉しいわ。でもこの絵は、本当に穏やかで、心があったかくなるような絵だったのよ。写真では分かりにくいわね。」
納得してくれているようだったが、その落胆振りは手に取るように分かった。それでもどうすることも出来ない。期待を裏切って絵を描いてもそれは・・。もっと悲しませることになるだろう。
「いつか・・。本当に、いつになるか分かりませんが、御自宅にお伺いしても宜しいですか?その時、もし絵を描きたくなれば、先生の道具を借りて描きます。全く違うものになると思いますけど、ちゃんと心のこもったものが描けると思います。完全な約束は出来ませんけど、僕の技術でよければ・・。」
「あなた、優しいのね。ありがとう。あの人ったら、あいつにしかできん。と仰って絵筆をとってもくれなかったのよ。あいつって呼ぶんだから、あなただって分かってらっしゃったのに。」
「先生も、同じ絵は描けないといいたかったんでしょうけど、プライドが・・。だから僕を探させたんじゃないですか?絶対に会えないだろうって。でも、偶然辿り着いてしまった。嘘はつけない人ですから、僕を呼びつけたんだと思いますよ。たぶん、僕なら断らないって高をくくって。」
「フフフ・・・。」
彼女は口元に手を当てながら笑った。僕も何だかほっと胸を撫で下ろす。
「あの人をそんなふうに評価してくれたのはあなたが初めてよ。」
「そうですか?僕は長く付き合わされたせいか、良く分かりすぎて嫌なんですけどね。先生は僕の父の友人で、父よりも酷く怒られましたから怖いんですけどねー。」
「まあ。そうだったの。今日は本当にありがとう。」
僕が肩を上げると彼女は軽く笑い、ふかぶかと頭を下げた。僕もつられて頭を下げる。
「また、おこし下さい。いつか、ですね?」
「あ・・はい。」
彼女はまた、口元に手を当てて笑うとゆっくりと外に歩いていった。僕は彼女の後姿を眺め深く頭を下げる。
「室部長発見!!」
「捕獲!!」
「え?」
両腕をがっしりと掴まれ、連行された。サボってる暇もない。三時過ぎに食堂に出向くと、休憩をとる越賀君とナツキさんの姿が見え、引き返そうとしたらまた捕獲された。
「君ねー。でかいんだから目立つのよっ。」
「・・不便だね。」
「便利じゃない。で、何で逃げるのよ。」
「怒られるかなーって。」
「当たり前じゃない!!ちょっととし君聞いてよ!!」
バシっと机を叩く彼女は興奮気味だ。僕の今日のランチはカレーパン2個。だったが、1個ナツキさんの口に入った。さっきの会議の事情を事細かく説明した彼女は、息を切らせながらもまだ語る。岡君はうんうんと頷きながら黙って聞いていた。
「お腹空いた・・。」
「買ってくれば?」
「・・うん。」
食券売り場は部屋の入り口近くにあり、食券を買う振りをして僕はこっそり逃げた。逃げたはいいが、他部署に捕まり監禁二時間。今日僕は自分の仕事を何一つもしていない。六時近くになり部屋に戻ると、山のような書類が机に置き去りにされていた。また・・帰れないなぁ・・。
「室部長ー?呑みに行きませんか?」
ひょっこりと千葉君が顔を出した。
「行かない。」
「えー。もしかして、コレです?それとも給料日前で金がないとか?」
コレ。と小指を突き立てて笑う。金がないのは君のほうだろう・・。僕にたかりにきてるのは見え見えだ。
「女はいない。金はある。」
「じゃあ行きましょうよー。」
「時間がない。」
書類を捲りつつペンを走らせた。彼はぽりぽりと人差し指で頬をかきつつじっと僕を見た。
「あのー。残業命令って事は・・ないですよね?」
「と、言いたいけど、勿論無いよ。行って楽しんできて。」
「室部長、お小遣い欲しい・・。」
「小遣い?どこで呑むの?」
「居酒屋ふっちゃん。焼き鳥がうまいんすよ。」
「・・。じゃあ、僕の名前でボトル一本つけておいていいよ。今度連れてってくれ。」
「わーい。室部長太っ腹ー。ありがとーこーざいます!!では、行ってきまーす。」
「行ってらっしゃい。」
彼の背中に軽く手を振った。聞いた事の無い居酒屋だが、・・まあ。いいや。仕事は終わらず。結局、部屋の机で朝を迎えた。軽い転寝をして物音で気がつくと桜坂さんが驚いた顔で僕を見る。
「やあ。おはよう。」
「お、おはようございます。室部長、徹夜されたのですか?」
「うん。終わらなくて・・ね。持って帰るにも資料ごとじゃ・・面倒でね。」
背伸びをしつつ、首を回して肩を揉んだ。
「お揉みいたしましょうか?」
「いいよ。セクハラっぽいし。」
「いいえ。好意を持ってすることはセクハラにはなりませんから。」
彼女は、前のめりになっていた僕の体を椅子の背もたれに預けると、その細い指で肩に触れた。力を入れて押してくれるが、感覚は薄い。
「ありがとう、いいよ。君が疲れる。・・今何時?」
「7時50分です。」
僕はポケットの鍵を出し、後ろにいる彼女に見せた。
「10時くらいまで寝るよ。電話かけてから来てくれる?それまで、鍵宜しく・・。」
僕は大あくびをした。彼女は鍵を受け取ると、僕に軽く頭を下げる。
「室部長、携帯電話お持ちですか?宜しければそっちへ電話を入れます。」
「ん?」
「社内電話だと、室部長がここにいますよってバレちゃいますから。受話器、上げておきますね。」
「携帯・・。ああ、鞄の中かな・・。」
がさごそと鞄をあさり、取り出した年代物の携帯電話。あまんり使わないので汚れない、壊れない。そして、使い方が良く分からないものだ。それを彼女に渡し、彼女はすばやく携帯番号を控えると電話を僕に返してくれた。
「じゃあ・・おやすみ。」
カチャリ・・。鍵をかける音を聞き、僕はソファに移動した。靴をはいたまま寝転がる。額に腕を乗せ・・・。何秒もかからずに眠りについた。良く眠れたような気もしないまま、電話が鳴り・・。起きあがれないままでいるとドアの鍵が開き、桜坂さんとともに数人の社員が腕に山盛りの資料を抱えてなだれ込んでくる。彼らは口々に何か喚いて、桜坂さんは静かに僕に珈琲を出してくれ・・。体を起こし、タバコをくゆらせながら珈琲を口に運ぶ。
「室部長、聞いてますか?」
「ああ・・はいはい。」
・・今日も、忙しそうだ・・・。