会議中、寒気がしていたのは事実だった。空は穏やかなほど澄みきっている。空調が切れている時間帯ではなく、午後二時を過ぎたあたり。暖かい珈琲を貰い、手を温めつつ喉に流す。書類とパソコンを眺めながら受話器を取り内線をかけ、仕事は順調に捗っているように感じたが、頭のどこかは何故かぼんやりとくすんでいた。
「桜坂君。コーヒー・・貰える?」
「室部長、飲み過ぎではありませんか?ホットミルクなら・・。」
「ミルクかぁ・・。それなら暖まるかな・・。」
「え?お寒いんですか?空調強めますね。」
「ああ。ありがとう。君は寒くない?」
「はい。私は何とも。室部長、そんな薄いスーツをお召しになってるから。それ、夏物ではないですか?」
「え?」
言われて、布地の厚さを確かめた。が、僕には良く分からない。空調を強め、カフェオレを作って持ってきてくれた彼女は失礼します。と僕の上着の襟に触れた。
「ほら。夏物。今朝、肩をお揉みしたときに違和感を覚えたのですが・・。室部長?」
「ん?」
襟を触る彼女の手に見とれていて、呼ばれたために彼女の顔を見上げた。襟に触れていた手が僕の顔に近づき、しなやかな指が額に触れる。
「室部長、熱上がっていませんか?」
「え?」
「体温計持ってきますね。」
そう言い、彼女は一つ頭を下げて部屋を出ていった。熱が上がっているのはたぶん、服が薄いせいだろう。この夏に一着スーツを襤褸切れにした、その服が冬物だったのだろうか。僕は電話の受話器を上げ、いつもの服屋に電話をかけた。
「ありがとうございます。」
電話口の女性が店名を言う前に僕は名を告げた。
「高塚だけど、冬物のスーツを幾つか用意してくれる?」
「あ、高塚様。いつもありがとうございます。冬物ですね?新しいデザインがありますが、いかがなさいますか?他に、シャツなどのご用命はありますでしょうか。」
「適当にまとめておいて。気がむいたら取りに行くよ。」
「はい。お待ちしております。」
受話器を置くと同時に口の中に体温計がさし込まれた。そして、ひざ掛けのようなものが肩にかけられる。毛のような素材で温かく、香水の匂いがした。
「スーツの発注ですか?室部長はいつもどのお店に行かれるんです?」
体温計を引きぬこうとすると駄目。と怒られた。コレじゃ話せない。ピピッと体温計が鳴るのを待った。だが、暫く経っても鳴らない。おかしいな、壊れてるのかしら。そう彼女は呟くと僕の口に入ったままの体温計の表示をみて目を丸くした。口に手を当て、慌てて部屋を出て行く。僕は体温計が鳴るのをまたずして口からだし、表示を眺めようとしたら取り上げられた。その主を見ようと顔を上げると、額に何か冷たいものを張られる。
「ん?」
「室部長。今すぐ、ソファで休んでください。」
「はい?」
「ほら、早く立って下さい。」
慌てた桜坂君に腕を持ち上げられ、しぶしぶ立ちあがるとソファまで誘導され座らせられてそのままソファに寝かされた。すばやくネクタイを解かれ、シャツのボタンを外され、体の上に毛布をかけられ・・。
「何、どうしたの?」
「昨日寒さも感じないまま仕事に没頭なさっていたんでしょう?」
困った顔で溜息をつく彼女。困った顔が可愛い。
「あ〜ら。みつめあっちゃって。お邪魔かしら?」
嫌味たっぷりの声に、桜坂君はすぐ立ちあがって僕に頭を下げると、足早に部屋を出ていった。代わりにナツキさんが書類を手にして現れ、僕の腹の上に腰を下ろす。柔らかいお尻と、足を組むムチっとした太ももにくぎづけになった。顔が見えないほど大きな乳房。溜息が出るほど色っぽい。
「彼女に携帯番号教えたんだってねー。もう鞍替え?そうねー。彼女綺麗だし、よく気がつくし。優しいわねー。もう食べちゃったりしたのぅー?」
「鞍替えって・・。ナツキさん、人聞き悪いよ。」
「じゃあ、何で番号教えたのよ。私も知らないのにっ。」
「それは朝起こしてくれるって言うから・・・って、ナツキさん、妬いてるの?」
「そんなわけ無いでしょ、バーカ。」
むっと膨れた表情で、彼女は僕の頭を書類で叩いた。
「コレ。昨日の会議の報告書。会議はまとまらなくって明日に延期。全部君のせいなんだから。」
「僕の?」
「そうよ。あのあと、社長と専務、常務。画家の壬生氏。その四人が会議に入ってきて大変だったんだから。君があの時うんって言ってくれさえすれば何の問題も無かったのよ?」
彼女はちらりと僕を見て、風邪なんてひいてる場合じゃないのよ。そう口を尖らせた。
「君、クビになっちゃうかも。」
「へ?クビ?」
「そうよ。どうするつもりなの?」
「別に困らないよ。一生遊んで暮らせる金は持ってるし。ただ、僕がこの出版社の脅威に代わるだけだしね。僕は努力をしたつもりだけど、弱小出版社の名前は先生方に浸透してないよ。」
「ずいぶんな自信ねぇー。でも、その通り何だなぁ。私もつい、電話で高塚のいる会社のーって付けちゃうもん。高級スーツを見事に着こなしても無頓着で、季節感も無くて。仕事には真面目で、時間にルーズ。そのくせ、この業界きっての広い顔。知らない先生なんていないって言い切れる自信家。」
「どうしたの?」
「そんな君をクビにするって言う社長が分からないわ。」
「私も同意見だよ。」
「え?」
二人同時に開いたままのドアに向いた。ナツキさんはすぐに僕の体の上から退き、身なりを整えて頭を下げる。僕も体をあげて立ちあがろうとしたが納められた。
「座っていいかな?」
「どうぞ。」
にこやかに微笑み、ゆっくりと僕の前のソファに腰を下ろす人物は・・。社長。もともと、芸術家を目指したそうだが、断念してこの出版社を立ち上げた実力家だ。中肉中背。普通のおじさんだが、威風堂々としている。
「君の仕事振りや、情報力の長けているところ。さまざまなところを買っているつもりだよ。・・なんだ、熱でもあるのかい?」
「は・・はあ。たぶん。仕事をしてると、自分では気がつかないんですけど・・。」
「集中力が高いせいだね。体は大事にしなきゃいけないよ。」
「はい。すみません。」
「いや。君を解雇するって言う話は、壬生氏から来ていてね。君を本物に仕上げたいと仰られたんだ。彼は、私に向かって、こんなところで働かせる器の男じゃない。と言い切られてね。」
「社長に・・ですか?」
「ああ。きっぱりと言ってくれたよ。実に彼は小気味がいい。」
「は・・はあ・・。」
あの人は、時と場所、言葉を選ぼうとしないのが・・悪い。正直過ぎるのが欠点だ。言葉には物の言い方というものがある。もう少し歯に衣着せるいい方というものがあっただろうに・・。
「それで、君の意見が聞きたくてね。高塚君、君はどうしたい。」
「・・どうといわれましても・・。僕はこの会社が好きです。仕事に誇りを持って働いています。僕の名前ではなく、会社名だけで取材を受けて貰える。今はそう、目標を掲げていますが、次世代を歩む美術家達の・・。」
「面接をしているつもりは無いよ。抱負ではなく。君が画家になりたいか・・。それを聞いているつもりだ。いずれ、何て曖昧に答えないでくれよ。それを受けたら、私が壬生氏に叱られる。」
僕は膝に肘を付き、掌を組んで長く息を吐いた。あの人は・・。僕だけでなく社長までもを脅したのか・・。ふつふつと怒りが込み上げた。唇を噛み締め、髪を掻き毟る。
「社長、少しお待ち頂けますか。」
僕はそう言い切ると、デスクまで歩いて受話器を取った。壬生俊一郎への直通の番号を押し、呼び出し音を聞く。長々とコール音を聞いているとようやく受話器があがった。
「何だ。」
期限の悪そうな声が聞こえた。僕は思いきり息を吸いこむと、「バーカ!!」そう叫んだ。
「何だ?誰だ。」
「僕ですよ。高塚です。昨日はどうも。」
「ふっ・・。お前か。で、何が馬鹿なんだ?」
「先生がですよ。自分の思い通りにしたいばかりに僕を貶めて如何なさるおつもりですか。僕は先生の元を離れるときにも言いました。画家になるつもりは無い。僕の生きる道を勝手に決めないで下さい。」
「何だ。河野が真に受けてお前のところに行ったな?はっはっはっは!!コレは愉快だ。」
電話口で高笑いをする壬生氏。河野。とは社長のことだ。
「先生・・。」
「お前が揺らぐかと思ったんだがなぁ。しかし、何でお前。そんな小さな会社に入った?身を隠すためだろう?」
「話を摩り替えないで下さい。僕は怒っているんですから。」
「ほう。感情が戻ってきたか?・・お前は春樹に良く似ているからな。」
また彼はわははははと愉快そうに笑った。耳元で煩い・・。
「河野がそこにいるだろう。代わってくれ。」
僕は静かに振り向いて、社長を見つめた。彼は何も言わず立ちあがり僕から受話器を受け取ると静かにそれを耳にあて・・。僕はソファに座って膝に肘を当て、組んだ手の上に頭を乗せた。
「ああ。わかったよ。」
社長はそう言うと受話器を置く。
「高塚君。試して悪かったね。どうも、私は彼の口車に乗ってしまったようだな。私は始めから、君を手放すことは考えていなかったよ。本当に君は、脅威になるからね。」
僕は立ちあがり、深く頭を下げた。
「だが、君が画家になりたい。そう言った時には全力でサポートするつもりだった。本当のところ、君は画家になりたいのかい?私は志し半ばで諦めたが、君なら・・。」
「僕の実力ではなり得ません。ただの趣味です。」
「そうか・・。邪魔したね。」
彼は少し肩を落とし、後ろ手を振って部屋を出ていった。彼の姿が見えなくなると、ナツキさんはへなへなと床に座り込んだ。
「ちょ・・ちょっと。どうしたの、ナツキさん。」
「緊張した・・。君、怖いんだもん。社長と壬生氏と対等に話してて、壬生氏を罵倒して・・。私、震えてる。君が凄過ぎて、大きすぎて。どこか、遠くに行っちゃったみたい・・。」
「僕は僕だよ。」
彼女を優しく包み立ちあがらせた。本当に、少し。震えている。
「壬生氏は、僕が幼い頃から付き合っている人だからあんなこと言えたんだ。社長には少し失礼をしたかな。おでこにこんなもの張って。」
ちょいっと額のシップを指で突つくと、彼女はようやく笑ってくれた。
「風邪、うつるといけないから戻って。」
「そう・・ね。うん。そうするわ。明日の会議、スケジュールに入れておいてよ?」
「うん。覚えてたらね。」
彼女は僕の腹に肘を食い込ませ、振り向きもせずに帰っていった。
「・・痛い・・・。」
腹を擦りながらデスクに戻る。書類に目を通しつつ・・。壬生氏との会話を思い出していた。僕が春樹・・。父さんに似ているからなんだというのだろう。父さんはいつも穏やかに笑っている人だった。僕が幼い頃、気に食わない友達を殴りつけて帰ってきても笑いながら、いいことじゃないなぁ・・・。なんて言って・・。怒鳴られた経験も少ない。その代わり、壬生氏には頭の骨が砕けるんじゃないかと思うほどの拳骨を数え切れないほど貰ったけどね。僕はよく、コレだけ背が伸びたよ。・・刺激が良かったのかな・・。いやいや、あれは痛かったし・・。机の上で、すっかり冷めたカフェオレを手にゆっくりと喉に流した。小さな事で怒る僕。父さんとは正反対のように思えるんだけど・・なあ・・。タバコをふかし、僕は天井を見上げた。