無くす前に・・手に入れろ。それは、彼だから、彼の言葉だから強く胸に響くのか。無くすのが怖くて手放してきた僕は、ただの臆病者だった。手に入れようと伸ばす手をすぐにしまいこんで、手放した振りをして。今、凄く不安だ。あのわくわくとした向上心が消えようとしている。食事もそこそこに箸を置くと、文仁君は僕にお茶をくれた。
「昨日雪かきして疲れたんだろ?」
「ん・・。」
彼の顔を見ることが出来ない。お茶を貰い、それに手をつけることもなく力なく机に置いた。
「なあ、昨日さ。絵を描いてみたいって言ってたよな。俺の部屋に筆とかあるから描いてみれば?」
「う・・ん・・・。」
「高塚さんも、じいちゃんと同じだ。」
「え?」
不意に顔を上げると、彼はにっこりと微笑んだ。
「やっと顔上げた。」
「あ・・。ごめん。ねえ、僕が何で先生と同じなの?」
「しゃべんないとこ。肝心なことは何一つ言わないとこ。世界中でたった一人取り残された不幸を勝手に背負って悩んでるとこ。俺には無駄な時間だと思うけどね。前を向けばたくさんの道があって、足を出すだけで進んでいくんだ。考える必要もないことだと思う。」
「うん。一つずつ、進んでいくよ。今は考えていたいという進み方をしてるだけ・・。ごめんね、君に諭されちゃったな。ありがとう。」
「誤魔化すとこも一緒かよ。全く。」
彼は手にしていた茶碗と箸を机に置き、机を部屋の隅に押しやり僕のほうに歩み寄ると、僕の両肩を掴んで思いきり床に倒した。
「え?」
彼は僕の体を跨ぐと、腰を下ろす。そして僕の脇の下に手を入れ、こにょこにょと動かした。
「あれ?くすぐったくない?」
「うん。そこは割りと平気。分かったよ、考えるの止めるよ。」
彼は僕の上に糊ながら、腕組みをしてふーむ。と唸った。そして、僕の顔に指を伸ばす。その指が徐々に顎の・・首の・・喉仏の上というか・・喉の奥に触れて・・。思わずびくっと体を跳ねさせてしまった。彼は本当に嬉しそうに笑う。
「ここかぁ。」
「え・・。や、やめ・・。ね。マジ、そこ駄目。」
「イーじゃん。良くしてあげっからー。」
徐々に伸びてくる彼の手。逃げようにも、乗っかってくれているので一緒についてくる。僕はくるりっとうつ伏せになり、彼を落とそうとしたが、彼のほうが一枚上手だった。足をつき、僕はその中で回転したに過ぎない。
「へへへー。がら空き。」
ちょいっと首を触られ、僕の体は反応した。くすぐったいというか、感じる場所というか・・。力が抜けて動けなくなる。背中に馬乗りに乗られ、両手でさわさわと触られて際目付けに、耳の後ろを撫でられた。
「は・・・。」
思わず声が・・出た。口を押さえるが、聞こえただろうか・・。
「うっわー。ビンカーン。可愛いー。」
「た、頼む。やめて。」
「して欲しいんじゃない?」
「やめて。ほんと、マジ。」
「ちぇっ。しょーがねーなー。」
彼はしぶしぶ僕の上から退いた。僕は体をあげ、首を自分の手で拭う。自分の手じゃ何ともないんだけどね。
彼は机を元に戻し、食事を再開させた。僕は何とか冷静を取り戻し、タバコに手を伸ばす。ふうっと溜息をつくと同時に吐き出す煙。まだ首がくすぐったい・・。
「な。忘れただろ?」
「え?」
「考え事。ぜーんぶ忘れたろ?ホントのばあちゃんが俺が泣いてたときに良くやってくれたんだ。何で泣いてたかなんてすっかり忘れてさ。良く利く呪いだろ?」
「それは・・実力行使じゃ・・。」
「ん?あ、そっか。」
彼は食事をかきこむ様にして食べると、一気に味噌汁を飲んだ。僕の残したものまでぺろりと平らげ、茶碗にお茶を注ぐと流し込むように飲む。彼の小さな喉仏がゆっくりと上下した。
「よし、食った。ご馳走様。」
彼はパンっと威勢良く手を合わせ、食器を台所に運ぶ。洗うのかな。と思ったが、彼はすぐに戻ってきた。
「ほら、立って。」
手を差し出され、僕はその手を握る。二周りほど小さな手だ。その手がぐっと引き、僕は腰をあげる。その手を繋いだまま僕達は廊下に出た。
「ここが俺の部屋。」
そう言い、彼は引き戸を開ける。部屋は4畳もないくらい狭いものだったが、壁いっぱいに絵が飾られていた。僕がその絵に見とれていると彼は僕から手を離し、筆と硯と紙を出す。
「これ・・。君が描いたの?」
「ん、そう。じいちゃんの見よう見真似っつーか、じいちゃん教えてくんないから。高塚さんから見て、どう?」
見よう見真似で描いた。そんな程度の絵ではなかった。まるで、先生が・・。僕がここにいた頃の先生が昔の絵だと見せてくれた絵のようで・・。いや、もっと強い。今の先生の絵を見ているからなのだろうか。逸材。僕は彼を凝視していた。幼い頃、そして、近年約五年。たったそれだけでこの絵が描けるものなのか・・。その絵の力に圧倒され、僕は座り込んだ。息もつかない。息をするのも忘れる。
「高塚さん?」
「凄い・・。君は・・。天才。・・鬼才・・。」
「なにそれ。それよりさ、ほら、筆。紙は和紙しかないんだけど、それでいい?墨、磨るの面倒だから墨汁じゃ駄目?」
どうしてこの子が世に出ないのか。すぐにでも知らせて世間を騒がせたい。そんな感情が沸き起こったが、何だかそれでは壬生先生と同じじゃないか。そう思ったとたん、そんな興味は失せた。
「おーい。なんか言わないと、触るよ?」
「え?あ・・・。ああ。何でもいいけど、どうするの?それ。」
「高塚さんが描くんだよ。」
「何を?」
「何でも。あんたが気に入ったものを好きなように描くだけ。ほら、ここ狭いんだから出ようぜ。」
押し出されるようにして部屋を出た。何でも好きなもの。そう言われると描けず、描けといわれたものさえ描けない。貰った和紙を無駄に使うことが出来ずに、筆に墨もつけず指の中で回していた。文仁君は茶碗を洗っている。先生はまだ寝ているし、僕の隣でだるまストーブは熱く燃えていた。何も考えないまま、タバコに火をつける。ぼんやりとしていたのだろう。僕は左手で筆を持ち、なんとなくの絵を暇つぶしに描いていた。水に塗れただけの筆だったはずが、墨が残っていたのか薄い線が残っている。描いたのは大口を開けて寝ている先生。僕の後ろから絵を見た文仁君は、墨つけた?と疑問符を問い掛けた。
「ううん。描くつもりはなかったんだけどね。左手で筆を持ってたから偶然紙に描いたみたい。」
「へ?何それ。」
「こっちの手ね。なんかぼんやりしてたりすると動くみたいなんだ。左利きだから仕方ないとは思うんだけど、変な癖でね。右手で文字を書けって直されたけどこっちの手では多分、君は読めない字を書くよ。」
「へー。面白いね、高塚さん。両利きなんだ。」
彼は紙を拾い上げると、ストーブで炙った。すると水が乾き、ほんのりと色が付く。
「この絵も、本物のじいちゃんも。気持ち良さそーに寝てるね。高塚さんに気持ちいい事したからかな。」
ニヤリと笑う彼。僕は首を触られたことを思い出し、首を拭った。
「もうしないよ。あ、紙はたくさんあるから好きなだけ使いなよ。これは第一号ってことで。」
彼はその絵をメモ用紙のように壁に画鋲で張りつけた。
「俺もかこーっと。」
丸机の、僕の右隣に座る彼。僕が使っていない筆を手に、ふと天井を眺めて口を尖らせた。僕はその彼を眺め・・。不意に左手が動く。墨をつけ、紙を前にそっと目を閉じた。視界に入るのは、僕の右手から肩。机。正座をして座る彼の下半身。筆を握る手と、紙と・・。しっかりと顔を眺められず、顎のライン、肩、胸・・。どのくらい時間がたったのか分からない。気がつけば、先生が起きていて僕の絵を上から眺めていた。文仁君は夕食の用意をしている。
「ああ・・。先生。目覚められましたか。」
「おう。ずっと前にな。夢中になるとなにも気がつかねー。何にも反応しねー。変わらねーなぁ。」
「え・・。あ・・ああ。まあ・・。」
「俺はそう言う絵はわかんねーがよ。綺麗なんじゃねーか?あいつの色気が見えるくれーだ。さっきいちゃついてたが、食う気になったか?」
「え・・・。起きておられたのですか?」
「ん?目が覚めただけだ。お前さんも突付けばいい声出すな。」
僕は顔が赤らむのを感じた。思わず口に手の甲を当てる。
「やめてくださいよ、先生。恥ずかしい。」
「はっはっは。そんな拘りは捨てろよ。初心なネンネじゃあるまいし。女にイかされたことはねーのか?あれはいいぞー。頭ん中、真っ白だ。」
先生は両手で耳の辺りに指をつけて回した。猥談を返すのは・・苦手だ。
「あっ。高塚さん。絵ー描けた?」
「う・・うん・・。」
文仁君は、僕の肩に手を置き、後ろから手を伸ばして紙を持ち上げ、僕に寄りかかりながら絵を見る。僕の頭の右寄りに彼の顔があり、息が・・かかる。びくっとして身を屈めると、偶然かわざとか。彼の指が不意をつく形で首にあたり・・・。
「ふ・・ぁ。っ・・。」
微妙な声を出しつつ、僕は机に突っ伏した。慌てて自分の手で首を拭う。
「ごめーん。悪い。わざとじゃないよ?」
「う・・・ん・・。」
何か体がゾクゾクする・・。腕を擦りつつ、態勢を整える。
「これ、俺だよね?こっちが、高塚さんの腕でしょ?高塚さんの視界そのまんまっていう絵?」
「そうだな。」
「ふーん・・。絵の感想はねー。」
彼は一つ唸ると、また僕の背中に引っ付いた。そして肩を掴み、動きを固定する。
「何?」
「じっとしてて。」
何が何だかわからないまま動きを止めると、ぺろりと・・首筋を舐めあげられた・・・。全身の神経がそこに集中し、ゾクゾクゾクっと身震いする。
「い・・・や・・・・。」
手足の自由が利かなくなり、僕は思わず悲鳴を上げた。首を拭うことも出来ないまま、両手で頭を押さえる。
「やっぱ高塚さん可愛いーー!!」
「や・・・やめ・・止めて・・・。頼むから、僕で遊ばないで・・。」
カッカッかと笑う先生と、腹を抱えて笑う文仁君。僕はようやく落ち着いて、手で首を拭った。
「飯、出来たよ。今日は高塚さんも飲みなよ。寝入り浅いし、深くも寝てないだろ?酒、少しなら疲れ取るからさ。じいちゃんは飲み過ぎだからな。」
ちゃんと、釘を刺すところは刺し、彼は台所に戻っていく。先生は軽く舌打ちした。
「あいつもその気だぞ。手ぇ、出してやれや。」
僕は首を振り、一つ息をついた。
「お前さん、頑固だなぁ・・。」
「先生に言われたくありませんよ。」
「ふ。だから分かる。欲しいものは、欲しいと思ったうちに・・な。拘れば拘るほど離れていく。」
「・・はい・・・。」
「今、返事をしたな?」
「え?だ、だからといってそういう意味ではありませんよ。拘った結果は、僕も・・。理解はしましたが、やっぱり何かが残るんですよね。大きくもなく、小さくもないような塊のようなものが。」
「消すか?」
「さぁ。消えるんでしょうかね。今は僕は、それを消す努力さえしていない。宙をさ迷って、浮いているんです。いつか、その答えを見つけますよ。」
先生は少し口の端を上げた。
「ほら、ちょっと退いて。飯飯。」
お盆いっぱいに料理を運ぶ彼。慌てて道具を片付け、机に皿を並べた。