「いつかじゃ遅ぇよ。俺は今になっても追いかけてる。もう、忘れらんねぇ。振りかえって笑ってる時枝は、ずっとあの時のままだ。俺は時間に、置いてかれた。進めねぇ。かわりに、戻れねぇ。お前さんは忘れるな。どうなるか知ってるならな。分かった振りじゃ、振りのままだぜ。」
先生が呟いた言葉。頭の中をぐるぐると回る。彼の言葉だからこそ、考える。酔いを冷ます。そんなふうにいい、家を出た。暗い林道を借りた下駄で歩きながら、凍えるような寒さに身を震わせた。息が靄のように出ては消えていく。街灯も殆どない暗闇。風の音と、木々の嘆きのような音が聞こえる。
「こだわるな・・。」
呟く声が響くことなく消えていく。色に。過去に。・・性別・・に?したいことより、するべきこと。聞きたい音・・。触れたい体温。掴みたい夢。考えるごとに、考えがまとまらない。苦悩、苦痛・・。揺らぎ。不安。冷たくなった手に息を吹きかけ、擦り合わせる。真冬に、母と、兄と。妹と。雪合戦をした。それも真夜中に。母が眠れないから。と僕達を起こして小さな公園に行った。父が通るはずだった。大いに遊んでも騒いでも。どのくらい経っても父は帰ってこない。呆れた母は、口を尖らせた。父は壬生氏の元で飲んでいたそうだ。真っ暗闇の中、ふと思い描いたが幻影は現れない。もう、家族のことは思い出したくなかった。だが、一度思い返してしまうと次々と溢れていく。だが、彼のように。幻は見えない。見ようとしていないからなのか。見られない。そう、思いこんでいるからなのか。凄く会いたい時に、・・いない。暗闇の中、何か小さな光が瞬いた。それは次第に近づく。
「こんな所にいた。もう冷めただろ?帰ろうよ。」
僕の肩にストールをかけ、文仁君は僕を抱きしめた。
「ほら、こんなに冷たい。考え事はまとまった?」
「いいや。何も繋がらなかったよ。絡まったまま、切れてしまった。」
「繋ぎたい?」
「戻るものなら・・ね。」
「帰ろう。じいちゃん、寝ないで待ってる。明日、海に行こうよ。」
「え?」
「じいちゃんが、言ったんだ。連れて行って見て来いって。一つぐらい定めがつくって。」
僕らはゆっくりと歩き出した。下駄の音は、雪でかき消されていく。
「ここの海、綺麗だぜ?」
「・・うん。知ってる。」
「何で?」
「見に行った。その頃は迷いで、今とは違ったけど・・。先生、その時も見て来いって仰った。」
「ふーん。」
暫く黙って歩き、廃屋に近い家の裸電球が見え始め、文仁君は一人走って家に入っていった。遅れて僕も家に入る。先生はだるまストーブに手をかざしながら、顔だけ僕に向けて笑った。
「せっかく酔ったのに、冷ましちまいやがる。闇ん中に何か見えたか?」
「・・何も。」
「何を探しに行った?」
「さぁ。ただ、ずいぶんと古い記憶が蘇りましたよ。家族で雪合戦をしたんです。」
「ふーん。その家族は笑っていたか?」
そう言われ、僕ははっとした。思い出したのは姿だけだった。なんとなくの面影だけ・・。
「三つ。一つはもう、粗方カタがついたはずだ。一つはもう動く。一つは・・お前次第。囚われるな。笑わないのはお前だ。俺が笑えば、時枝は笑う。」
僕はただ、頷いた。俺は寝る。そう言い先生は布団にもぐりこんだ。僕はストーブにあたりながら、その炎を見つめていた。先生の言葉はまるで暗示だ。それに言い包められてしまうような重みがある。それに縋って、僕はここに来た。水墨画の先生なら誰でも良かったはずなのに。
 軽い転寝をして目を開けると、もう朝だった。体にくるりと巻かれた毛布。食事の用意をする音・・。ぼんやりタバコに火をつけると、起きた?と声が聞こえた。
「味噌汁くらい飲めるだろ?」
巻かれている毛布を強く手繰り寄せ、もっと体を丸めた。
「どうしたの?寒い?あ、風邪ひいたんじゃねーだろうな。昨日長い間・・。」
「ううん。ちょっと、寂しくなっただけ。」
「え?」
「少し、夢を見た。それだけ・・。」
煙草の灰が落ちそうになり、慌てて灰皿の上に灰を捨てた。
「悲しい夢だったのか?」
「いいや。楽しくて嬉しかったよ。」
「じゃあ、何で寂しいんだよ。」
「・・さぁ・・。」
突然両頬をつねられた。・・こんなこと。前にもあったような気が・・・。
「わけわかんねー事言ってんじゃねーよ!!しゃきっとしろ、男だろ?」
「ひぃひゃい・・。」
「喋るんなら全部喋れ、いわねーんだったら何も言うな。甘えんな、バーカ。」
彼はぱっと手を離すと、そのまま僕にしがみ付いた。
「寒いんなら、暖めてやる。」
耳元で囁かれ、何だか嫌な予感が脳裏を過る。そう言ったような事は良く当たるもので・・・。彼は僕の首にカプリと噛みついた。全身がそうけだつ。彼は僕の体にしっかりとしがみ付き、舌先で肌を弄る。
「あ・・・あ・・・ぁ・・。」
彼を引き剥がそうとしても離れず、力が抜けていく・・。彼に身を預け、体は痙攣したかのようにビクついた。
「あ・・。やめ・・て・・。」
持てる力を振り絞り、彼の背中に手を回して服を掴み引っ張るが、唇と歯。舌の攻撃が次第に激しくなっていく。強姦されてる気分だ。ついにはその手の力も抜け、全身を彼の体に預けた。
「ほーら。暖まった。敏感で可愛いなぁ。」
「ひ・・どい・・。」
「どこが?気持ち良かったろ?高塚さんのイイトコって、首だけ?探していい?」
「ヤダ・・。」
「抵抗できないくせにー。」
彼はでかいおもちゃを手に入れた子供のように悪戯っぽく笑った。
「してやろうか?じいちゃんの前じゃ恥ずかしい?」
「あの・・、ね・・。」
「口だけの抵抗って、いいね。ゾクゾクするよ。」
「僕はもう味わったよ・・。」
何とか力が入るようになり、僕は彼の体から離れた。
「なぁんだ。もう回復したんだ。」
「ああ。」
「イキそうな声出してたのに。残念。」
彼は小悪魔のように笑い、台所に戻っていった。僕は手で首を拭い、思いきり溜息をついた。妙なことを教えるんじゃなかった。弄ばれる・・。まあ、そのおかげで完全に目が覚め、朝食を食べることが出来た。昨日のいいつけ通り、海へ行くことにし、スーツに着替える。さすがに、ネクタイを締めることはしなかったが文仁君は堅苦しいと苦々しく顔を歪める。車に乗り、大音量の音楽に耳を塞ぎつつ苦痛なドライブを約一時間。波止場についた。無謀な運転と音楽で頭が回る・・。車を降り、頭を振った。風が冷たい潮風を運ぶ。
「今日は凪だね。船、出てるかなぁ。」
彼は縁まで歩いていって海を見渡した。僕がここにくるときに降り積もっていた雪は所々残るのみで後は乾いてしまったようだ。車の周りも雪はなく、僕はコンクリートの地面に腰を下ろしてあぐらをかいた。車に寄りかかり、空と海の境界線を見つめる。良く晴れていて、雲がゆっくりと動いて。波の音に耳を傾け・・。うつらうつらと転寝をしてしまった。
「寝るために来たの?」
「ん・・え?」
「寝るために来たのかって聞いたんだよ。変なところで寝るくせに、部屋の中では寝ないんだな。」
彼は僕の隣に座っていた。風上に座り、僕を暖めてくれていたようだ。
「ん・・・。ああ。つい気持ち良くて。」
「見ろよ、夕日。朝ここに来たんだぜ?」
怒ったような、呆れているような・・。彼が指差すほうを見ると、陽炎のような靄の中に太陽があった。きらきらと輝く海。流れる光。大きな太陽。
「ねえ、文仁君。聞いていいかな。」
「何?」
「僕は、朝日か夕日か分かる絵が描けるかな・・。」
彼は黙ったまま、太陽を眺めていた。
「描いて、みたいな。」
「じゃあ、描けるよ。そう思ったんだから。有言実行しろよな。」
夕日が全て沈むまで、ぼんやりと二人無言のまま眺めていた。気がついたようにタバコを口にくわえる。
「それって、そんなに旨いのか?」
「さあ。癖のようなものだよ。口寂しくてくわえる感じ。」
「じゃあ、こっちのほうが旨いよな。」
僕がタバコを指で挟むと、彼は僕の顔を自分のほうに向かせて・・。目を閉じた彼の顔が目前にある。唇に柔らかい感触。数秒の後、彼は離れた。
「苦い・・。」
「煙草・・吸ってた・・から。」
「高塚さん。帰ろ。乗って。」
「え?あ、タバコ・・。」
「灰皿あるよ!!」
彼は何事もなかったように立ち上がると、運転席に向かってドアを開けた。僕も慌てて立ち、車に乗込む。またあの凄い音に苦しみながらのドライブか。そう思っていたが、彼は音楽を消した。エンジン音は車の中にいるとそう聞こえるものではない。吸い終わった煙草を新品同然の灰皿に捨てるが、・・なんか悪いような気がした。
「なあ、高塚さん。俺と寝ない?」
「・・はあ?」
「嫌かよ。」
「・・・・。」
何て答えて良いのやら・・。無言のまま車は走り、家に着いた。
「なあ、返事は?」
「困ってる。」
「何で?俺が男だから?」
「うーん・・。」
「何だよ。嫌いならあんなに反応しないだろ?」
「・・慣れてるのか?」
「んなワケねーじゃん。き・・。キスしたのも初めてだし。」
「僕を食べたくせに。」
「うまかった。」
「・・・・。」
僕は車の戸を開き、外に出ようとしたが腕を掴まれた。強い力で引きずり込まれる。
「あのさ、からかってる?」
「いいや。マジ。本気。」
「考えとく。」
「何を?本能だろ?」
「それに左右されないようにするのが人間。」
いや、翻弄されっぱなしだったけど・・。それは棚に上げよう・・。
「ちぇっ。硬いんだなぁ。」
「・・まあ・・。」
「あ、入れられんのが嫌とか?」
僕は彼の手を振り解き、外に出た。本当に猥談を言われるのは答えに困る。
「あ。怒った?ごめん。」
「怒ってないよ。困ってるだけ。」
車を降り駆け寄る彼は僕の前に着てじっと僕の顔を見上げた。見上げるのだから、僕は見下げる。
「キス、してよ。飛びっきり大人のやつ。」
ん・・。と、目を閉じる彼。僕はその額にキスしてあげた。目を開け、彼は僕を睨みつける。
「絶対、落とす!!」
「崖は・・怖いな。階段?海?」
「つまんねー。」
彼は呆れて部屋に入っていった。が、突然叫び声を上げた。慌てて部屋に入ると文仁君は先生の体を揺すっている。
「じいちゃん?なあ、じいちゃん??」
傍に寄り、文仁君を引き離して先生の体を抱き起こし、呼吸を確認して脈を取った。意識混濁。呼吸薄弱。脈も遅い・・。
「文仁君、救急車呼んで。」
「あ・・ああ。」
彼は電話のある場所まで走っていった。僕は先生の体を寝かせ、転がっていた毛布を掴み引くと彼の体にかける。だるまストーブをつけ、火力を上げた。
「先生?」
呼びかけには反応しない。だが、うっすらと目が開いた。
「先生?」
「ああ・・。高塚。聞け・・。」
「はい。」
小さな声で搾り出すように話す弱々しい言葉。
「あの子は・・。俺を継げる。三代目を名乗らせな。・・名を・・知っているか・・?」
「はい。圭二ですね。」
「ああ。」
彼は薄く笑うと、また目を伏せた。
「出来るだけ急ぐように頼んだけど・・。じいちゃん・・。」
「大丈夫。・・大丈夫。」
先生は落ち着いている。僕は文仁君が先生の体を揺すらないよう抱きしめた。