Heaven
事務所に、妙な脅迫文が送られてくるようになって三日。俺は誰にも告げず、行き付けの珈琲ショップに顔を出していた。俺の顔を見て、慌てて近づく如月さんの顔は忙しそうにあたりを見まわしている。
「忙しい?」
「ええ。まぁね。だって、何の連絡もないまま来るんだもん。」
「・・連絡?」
「あ・・。」
彼女は慌てて口を押さえた。
「へぇ。俺がここに来るときには、連絡が入ってたんだ。初耳。」
「きゃーっ。聖さん意地悪顔。私が口を滑らせたって、言わないでよ。」
「さーねー。」
《もうっ》そう、口を尖らせる彼女。
「あ、ねぇ。スナイダーズの、金髪の子。あの子可愛いじゃない。歌も上手いし。トム君って言うんでしょ?ね、今度サイン貰ってきてよ。」
何気ないフリをして話を逸らす彼女。目が泳いでいる。
「事務所に来ればいいじゃん。大抵、ごろごろしてる。」
「行かれないわよー。配達でも頼んでくれればすぐ行くけど。サインまでは頼めないわ。あ、ああ・・そーそー・・。」
彼女は俺の左耳に近づくと、小さな声で《まゆらチャン、ご懐妊なの?》と囁いた。
「ええ?」
「なーに?聖さんが知らないんじゃ・・ガセ?週刊誌では話題よー。」
「・・知らない。あいつらのことは・・まったく。」
「むー。そーなのかぁ・・。聖さん、確かめてきてよ。」
「やだよ。一応、プライベートだし。公表を待てば?」
「だって、せっかく業界関係者がここに居るのにィ・・。」
「・・じゃあ・・。俺に抱かれる?」
彼女はぴたっと体の動きを止め。真顔で言い放った。
「聖さん。女を抱けるの?」
俺は返す言葉も失せ・・絶句する。そう言えば今まで、女を抱いたことはない。店内に響き渡る声で大笑いする彼女。カランカラン・・。そう、扉のベルが鳴り、如月さんの表情が曇った。パンッ・・。振り向きざまに頬に刺さる痛み。店内に響く・・音。しばらく無音状態に陥った。無防備に藤堂に平手打ちをくらい、口に血の味が広がる。
「どうして・・・。私は、貴方にたった、たった一つです。一つ・・。願いました。出かけるときには・・声をかけてください。それだけです。それ意外は全て貴方の思うが侭にしてくれてかまわない。お願いです。これだけは・・・っ。」
俺を殴っておきながら、深深と頭を下げ叫ぶように懇願する。だが、ゆっくり上げられた彼の顔はいつもの沈着冷静な顔ではなく、慌てふためき、涙で濡れた顔・・。久しぶりに見た。俺が煙草を口にくわえると、彼は慌てて背広のポケットからライターを出し、それに火をつける。慌てて走ってきたのかコートも着ずに・・?まだ堪えた嗚咽が残るが、必死にそれを覆い隠そうとしている。ライターを持つ手が震え、肩が上がった。
「如月さん。やっぱ、俺。こっちがいいや。タクシー呼んでくれるか?」
「え・・ええ・・。大丈夫・・?」
「ああ。・・まぁな。」
彼女が奥の電話に手をかけるのを眺めつつ、紫煙を燻らす。藤堂がここまで泣く姿なんて・・始めて見た。ベッドの上で泣かすのとは違って妙に色気がある。流れていく涙をそっと手で拭う仕草を眺めつつ、珈琲を口に運んだ。血の味と混じり、妙な鉄味が口の中に広がる。
「まったく・・。お前も、慌てるんだなぁ・・。知らなかったよ。」
「それは・・。聖さんが・・。」
「俺が悪い・・んだな。ああ、悪かったよ。悪かった。だがなぁ・・。」
俺はもう一度珈琲を口に運び、中身を飲み干した。
「落とし前はつけてくれるんだろうな。」
「あ・・あの・・。申し訳ありませんでした。いきなり・・叩いてしまって。」
ふ・・と頭を下げる彼の垂れた前髪に触れた。久しぶりに触れるような気がする。艶やかな黒髪。彼が頭を上げるさいにするりとすり抜けていくすべらかな髪。
店前で止まる一台の車を眺めながら、タバコを灰皿に押しつけた。俺はゆっくりと椅子から立ちあがり、戻ってきた如月さんに軽く手を上げて《クローズ》と掲げられた扉の手摺に手をかける。表から見たら、《オープン》なのだろう。白地に緑色でかかれたプレート。ヘビーエンジェルの店名。珈琲ショップというよりは、何処かのカウンターバーのような名前。ここが気に入った理由だったような気がする。
「騒がせてすみませんでした。」
藤堂はそう言い、すぐに俺の前に回ると扉を押し開けた。歩道脇に止まったタクシーのドアが開く。俺が車に乗りこむと、藤堂が乗りこみ、ドアを閉めた。行き先を告げようと口を開く藤堂より先に、俺は《モーテル》とだけ告げてシートに体を預けた。驚く藤堂は俺の顔を見る。だが、車はゆっくりと動き出した。窓から見える景色は、ビルと人と車。雑踏。そう呼んでも何らおかしくない街並み。女性が大きなビニール袋を手に歩いている姿をぼんやりと目で追いながら、歩行者信号の点滅を見る。
「あの・・。聖さん。怒って・・ますか・・?」
「・・ん?」
「私は・・。」
藤堂は口を噤み、俯いた。
「べつに。」
俺はまた車窓に流れる景色を眺める。呼びこみする人たちや、ポケットティッシュを配る人たち。潜り抜ける歩道橋。その上から下を眺めている人。バス。バイク。トラック・・。街中を抜け、夜のネオン街を通りすぎそのまだ奥。おしのび。そういう形容詞がよく似合うようなホテル街のあるホテルの前に車は止められた。運転手はルームミラー越しにこちらを伺うが、俺は勝手に車のドアを開けた。支払いを彼に任せて俺は車から降りる。ここでするといったら一つで、それが嫌なら彼はそのままタクシーで帰ればいいだけのこと。振り向きもしないまま、俺は目の前にあるホテルに足を向けた。藤堂は、素直に支払いを済ませ車を降りると、俺の後を追うかのように小走りに歩いてくる。エンジンをふかし、早々と走り去る車。俺はそのまま先を歩き、彼は俯いて歩いてくる。ロビーで一番高い部屋を取り、エレベーターに乗りこんだ。壁に背を押し付けながら昇っていく電工文字を見上げる。上がる箱は、一度も止まることなく最上階につき、居心地の悪い無重力から開放された。勝手に開くドア。見える、長く続く廊下。数ある個室のドア。藤堂が俺の先を歩き、キーホルダーのようになっているルームナンバーを探すとそのドアに鍵を差込んで回した。ドアを開けて彼は軽く頭を下げる。先に部屋に上がりこみ、ベッドに座りこんで、煙草に火をつけた。ドアを閉め、部屋に入ってくる藤堂は俺の前に立つ。背筋の伸びた、凛とした姿。着こなしたスーツにしわも乱れもない。黒いスーツ。白いシャツ。紺のネクタイ。・・漆黒の髪。深く力のある・・相貌。
「・・あの・・。聖さん・・。私は・・。」
「シャワーでも浴びてくるか?それとも、今すぐ?」
「ひ、聖さんっ。そんなことをしている暇は・・っ。」
「暇?何しにここまできたんだ?」
「そ、それは・・。それに・・。御厨君・・が・・。」
俺は吸いかけの煙草を灰皿に押しつけ、徐に立ちあがった。
「御厨が、何?」
窓辺に立ち、下ろされたブラインドを指で広げ外の景色を眺める。鬱蒼とした木々。秋の強い日差しが木々の葉に降り注ぎ、反射してキラキラと輝く。鳥が鳴いているのか、嘴を動かしながら何処かに飛び去っていった。
「・・。貴方は、彼を・・愛しています。私ではない。」
「で?」
「私を抱いても・・。」
「仕方ない、か?」
藤堂は小さく、《はい》と呟いた。
「何でお前がそれを決める?それに、何故そう云い切れる。」
「見ていれば判ります。貴方は彼を求めてる。仁也さんではありません。」
「俺の頭の中が見えているようないいぶりだな。・・不愉快だな。」
俺は窓辺から遠ざかり、藤堂の目の前に立つとその彼の顎に手を伸ばし、くいっと上に持ち上げた。黒い瞳が俺を見つめる。黒い・・光。黒曜石のように輝く。顔を近づけ、口付けしようとしたが彼はそれを顔を逸らし拒んだ。
「私では・・ない・・。」
「強情だな。・・今更。」
無理やり顔を上げさせ、食らいつくように重ねた唇。彼の頬に流れていく一筋の涙。それとは裏腹に、俺の胸にそっとあてがわれた手。藤堂の黒髪が・・さらりと流れた・・。