夜の月の殿様
僕がこの家に遊びに来たある年の夏休み。アレは、パパが言い出したことだった。
「全く、東京の夏は暑い!!」
「東京だけじゃないと思うけどぉ・・。」
ママはエアコンのリモコンを手にして、設定温度を下げた。僕はその頃、テレビゲームに夢中になっていて、友達はみんな[実家]というところに遊びに行ってしまっていなかった。
「ねえ、ママ。今からでも遅くは無い・・と思う。」
「なーに、パパ。」
「長野に、避暑に行こう。ほら、軽井沢もあるし。」
「・・ホテルに泊まるならいいわ。」
「何だよ、あの場所だったらホテル代出さなくてすむじゃないか。衣食住、タダだよ。」
「そうは言っても・・。もう、お盆になるし・・・。もうすぐ満月じゃない。」
「その日だけ・・。」
パパはママに近づき、何かヒソヒソ話をし、話し終わってからママはパパを軽く叩いていた。
その日のうちに荷造りが始まり、夜に車を走らせて長野のおばあちゃんちに向かう。僕は車の中で眠ってしまい、気がついたらおばあちゃんちの布団に挟まれていた。
「おお、紅羽ちゃん。起きたかな。おばあちゃん覚えてるかい?」
「・・うん。」
うろ覚えだったが、知らない人じゃなかった。僕は古い家の今の机の前に座り、ばあちゃんから麦茶を貰う。東京じゃ見られない、とてもとても古い家だ。僕はあたりを見回して探検したい気持ちで一杯になる。パパとママは、近所の神社まで散歩に出かけていなかった。
ゲームをしようにも機械を持ってこなかったし、ここにも周りには友達は無い。それでもこの家の探検と、ばあちゃんが教えてくれる遊びで毎日が楽しかった。
夜。丸い月の出た晩に僕は縁側にいた。おばあちゃんがくれたお手玉が、上手く操れなくて膨れていた。一つ、二つ目ぐらいはできるのに、三つになると何処か遠くに飛んでいってしまう。ばあちゃんは八個ぐらいを簡単に投げられるのになぁ・・。僕は口を尖らせて空を見上げていた。金色の、大きなお月様がとても近くにあるように見える。ふと、ばあちゃんが縁側に来て、その板の間に白い盃を置いた。その盃の中に、トクトクとお酒を注ぐ。そして、その盃に向かって手を合わせて目を閉じた。
「・・おばあちゃん。なにやってるの?」
「殿様にお酒を上げてるんだよ。」
「殿様?」
「そう。この家を守ってくださっている殿様。ばあちゃんには見えないけど、ばあちゃんのばあちゃんは殿様のお姿が見えたそうだよ。」
「・・・お化け?」
「はははは。守り神さまかな?」
ばあちゃんは軽く笑って僕の頭を撫でた。きょう、僕はこの家で一人きりのお留守番をしなければならない。パパとママはデート。とお昼頃からいないし、ばあちゃんは今から村の集会に出かける。
「おばあちゃん。僕に、殿様見える?」
「さぁ。どうかね。殿様は、この家に住むものなら誰でも見守ってくださるそうだよ。」
「・・ふーん。」
ばあちゃんの話は、御伽噺のようなもの、と僕は信じなかった。
その日。それを見るまでは・・・。
僕は、みんなを待ちくたびれて縁側で眠ってしまい、コトンという音で目が覚めた。目を開け、体を持ち上げると目の前に月の光に照らされた男の人がいて、その人は美味しそうに白い盃に入ったお酒を飲んでいるのだ。着物を着た、髪を結った男の人・・。はっきり見えたのでばあちゃんの言った殿様、だとは思わなかった。まだ、みんなは帰ってこない。泥棒・・なら、こんなところでお酒なんて飲んでないよね・・。
「お兄ちゃん、ダレ?」
そう聞くと、彼はふ・・と僕のほうを見下ろし、柔らかく微笑む。
「人の名を聞く前に、名乗れ。」
きりっとした声。僕は怒られたような気がしたけど、ちゃんと自分のを名乗った。
「紅羽・・・。か。いい名だ。」
彼はそう言うと、ゆっくりと盃を口に運ぶ。長い・・指。でも、左腕が・・見えない。着物の袖に隠れているだけなのか、触れてみたい気がしたけどさわれる雰囲気ではなかった。
「ねえ。名前は?」
彼はふと、思い出したようにこちらを向き口元を微笑ませた。
「・・忘れた。」
「えー?どうして?」
「ずっと・・呼ばれないからな。」
「ふーん。どうしてここにいるの?」
「・・・。さて。馳走になった。」
彼はそういうと、ゆっくりと盃を置いた。もとあった、ばあちゃんが置いた場所と多分、同じ場所・・。注いだとき零したお酒がまだ乾いていない、円の上。
「ねえ・・。」
彼は振り向きもせず・・。
「ただぁいまぁ・・。」
そんなばあちゃんの声に気をそがれ、もう一度振り向きなおすと、青年の姿は無かった。彼が飲み干したはずの盃の中にあるお酒は、ばあちゃんが注いだまま残っていた。