夜の月の殿様
アレが、一夜の夢であった。僕だけの夢。そんな風に思い込み、誰にも語らなかった一年。僕は、単身。おばあちゃんちに来ていた。パパとママは、おばあちゃんが語るあのお殿様の話と、迷信のような呪いのような盃に酒を盛るという行為が気味悪いといい、ここ、おばあちゃんちに寄り付かなくなっていた。パパの実家だというのに。
この、広い武家屋敷の一角。月の見える縁側。白い盃に清酒を盛り、月の晩に置く。その場所。今・・・。彼、一清くんがよく眠る場所。アレから、あの青年を見ない・・・。
ばあちゃんも亡くなり、父と母は未だ東京に住む。暑い、といい、エアコンで外気を暖めながら。
団扇をパタパタと仰ぎながら昨日の思い出のような夢を巡らせていた。いっくんは今朝、一度自宅に戻ったがまたここに、この縁側に来て眠っている。僕を見ているわけで無く、この場所が気に入っているだけ。不思議な感覚だ。
あの・・。一年。あの時、九つだったかな・・。そのぐらいだった・・。
「くう。」
・・はっと、現の世界から呼び戻されたような気分だ。いっくんに呼ばれ、団扇を握る手に力が入る。
「くう。お前・・・。」
「な、何だい?何?」
「・・・・。」
「何・・?いっくん・・?」
じっと僕を見つめるその深い瞳。まだ、小さな子供なのに何を考えているかわからない。
「・・・・。忘れろよ。今は、・・・。ここにいる。」
「・・え?」
「・・。・・夕立・・。」
ふと。空を見上げる彼はそう言うと、ゆっくりと瞬きをした。時々、彼は何かを言いたげで・・何も言わない。彼が見上げた空から、ぽつぽつと雫が落ち始め、雷鳴と共に土砂降りの雨が空から落ちた。
「ほんとだ・・。いっくん、よく分かったね。」
「・・うん。雨・・。夕立は・・嫌いなんだ。」
そう言いながら、屋根から落ちた雫を小さな手に乗せ・・。いっくんは、その雨に濡れた手を静かに握り締める。
「全部・・逃げてった。掴めなかった。夕立みたいに一気に押し寄せて・・。水みたいに何処かに行ってしまう。想い出なんて・・・。要らない。」
「・・いっくん?」
「今、くうは、ずっと何かを思い出そうとしていただろ?」
ふと、僕の顔を見上げる彼の表情は何処か儚げで、寂しさを浮かべた笑顔だ。
「う、うん・・。でも、なんで・・。」
「・・。」
また・・。彼は黙ってしまった。僕が、いつも質問攻めにしてしまうのが悪いのかな・・。
じっと、押し黙ったまま。割れるような夕立の音に耳を傾ける。時々唸る雷鳴と光る空。
「ねえ、いっくん。ここ・・すき?」
「・・・ああ。」
「そっか・・・。」
「それよりも好きなのあるぞ。」
僕を見上げるいっくんの顔・・。こんどは久しぶりに見る笑顔だ。屈託の無い、子供の笑顔。
「え?何、何?」
「・・紅羽は知らなくていい。」
「ず、ずるいよ、いっくん。そこまで言っておいて。じゃあ、どのくらい好き?」
「この雫の数より好き。」
今度は真顔。世間で見る子供より、表情は少なく刹那的。ゆっくりとした動作と、落ち着きのある態度。ぼんやりしているんじゃなくて、じっとしている。
この雷雨の雫の数。計り知れない数・・。僕も無言になってしまった。
「・・。」
要するに、たくさん・・かぁ。やっぱり、いっくんの言いまわしは不思議だ・・。
「空の、広さや・・海の深さより。まん丸な・・一つしかない月よりも。護れなかったから。守る事ができなかったから。」
「え?」
「想いすら・・。」
「・・・いっくん・・?」
彼はまた押し黙る。こんなときの顔は・・。苦しげ。五歳の子の想い。守る何か。強い思いは小さな体の中にせき止められていて流れ出すことがない様に固められている。それを解放してやることができるならば、彼は・・・。
「雨・・止むな。」
「・・うん・・。」
今はまだ、空を見上げて。彼が紡ぎ上げる言葉に答えてやれるだけ。僕自身、情け無いけど・・。でも、彼は何か強い意思があって・・。きっと、言いたいことがたくさんある。今じゃないだけかもしれない。いつか話してくれるかもしれない。話さないことかも・・。
「紅羽。」
不意に呼ばれ、僕は彼を見下ろした。
「何?」
「・・なんでもない。」
「・・・そう・・?」
僕は今、彼の小さな体ではなく、僕よりもふた周りほど大きな体の青年を見たような気がした・・。そう、あの日。あの年に見た、あの・・名もなき青年の姿を。