夜の月の殿様

 
 満月ではなかった。
 小さな僕は縁側で空を見上げ、細く輝く月を眺める。黒、というよりは青い色の空。おばあちゃんは僕の隣に白い盃を置くと、その中にお酒を注ぎ入れた。
「ばあちゃん。きょう、満月じゃないよ。」
僕がそう言うと、ばあちゃんは軽く笑った。
「いいんだよ、ばあちゃんな、いつも忘れんように月の出る日はこうしてお酒を注ぐんだ。」
「ふーん。お殿様、来るの?」
「さぁて。ばあちゃんには見えないからねぇ。」
去年貰ったお手玉を持参した僕は、鞄から三つのお手玉を取り出した。いくら練習してみてもなかなか上達しない。それをばあちゃんに渡すと、彼女は僕の前に腰を下ろし歌を歌いながらそれを操り始めた。僕の知らない歌だ。歌を聴いていても、数え歌ではない。
「ばあちゃん。それ、何の歌?」
去年は歌ってくれなかった。ばあちゃんは手の動きを止めることなく、口元を緩ませる。
「昔々の子供達が歌った歌だ。戦の勝利を詠う歌。」
「いくさ?」
「昔の戦争のことだ。無事に帰ってきますように・・。」
「なんで戦争したの?」
ばあちゃんは一つ頷き、ばあちゃんには分からないと呟く。
「決して、善い事ではない。起こらない方がいい・・。」
「・・うん。」
その、起きてはならないことの勝利を願う歌だけが今に続いていることが不思議だったが、僕はばあちゃんの手を眺めながらその歌に耳を傾けた。
「ほれ。やってごらん。」
「う、うん。」
僕はお手玉を渡され、一つポーンと空に投げた。それは真っ直ぐ僕の手の中に戻ってくる。僕の手の大きさに造られたお手玉は、ばあちゃんには小さすぎるといい、ばあちゃんは居間に戻り机に肘をつきながらお茶をすすった。
お手玉を二つに増やし、三つに増やす。真っ直ぐ投げているはずのものが庭に飛んでいき、庭においてある大きなサンダルをはいてお手玉を拾いに出た。お手玉を拾い、顔を上げると・・。縁側に白い着物を着た青年が座っている。去年見た、あの人だ。ばあちゃんは全く気がついていないらしくテレビに見入っている。その時、部屋の時計がボーン・・・と鳴った。ばあちゃんはその時計を見やると、あらま、こんな時間かい。そう独り言を呟いてテレビのスイッチを切ると、台所まで行って戻ってきた。
「紅羽ちゃん。おばあちゃん、ちょっと出かけてくるから。お菓子、ここに置くよ。」
「う、うん。何時ごろ戻ってくるの?」
「九時ごろには終わるんじゃないかなぁ。眠たくなったら、先に寝てていいからね。」
「はーい。いってらっしゃーい。」
僕は庭からばあちゃんに声をかけた。テレビの音がなくなり、ここは風の音と、虫の声がするだけ・・。少し寂しいけど、あの青年がいる。僕は彼の隣に座ると、お手玉を彼に差し出した。
「ねえ、できる?」
彼はゆっくりと僕を見下ろす。そして、軽く笑うと少し肩を揺らした。
「俺が触れるのはこの盃だけだ。それに、それは女子のする遊び。」
「え?そうなの?男はしちゃだめなの?」
「駄目って事もないだろうが・・。ヘタクソ。」
僕はむっとして唇を突き出した。
「じゃあ、殿様はできたの?」
「俺の生きた時代にはなかった遊びでな。俺よりずっと若い。」
「・・殿様は何をして遊んだの?」
「遊びは・・知らんな。ずっと戦ばかりであった。」
殿様は空を見上げると苦笑し、盃に手を伸ばした。
「ずーっと?」
「ああ。ずーっと・・。」
「どうして?」
「・・どうして?不思議なことを聞く。」
「不思議?」
「ああ。俺の生きたときは、それが普通であったからな。人を、国を守り、領土を広げ。より、安泰な時を過ごそうと必死だった。今は・・平和だなぁ・・。」
彼はまた盃を口に運ぶ。それを床に置くと、飲んだはずのお酒は満タンになった。
「ねえ。殿様。名前、思い出した?」
「・・さぁな。呼ぶものが付ければいい。お化け、などと呼ばれたときもある。」
「お化けなの?幽霊なの?」
「・・幽霊?」
殿様は今度は声高らかに笑った。僕には分からなかったけどとても可笑しそうだ。
「亡霊、だな。俺は昔、怨霊だった。」
「おんりょうって・・何?」
「知らんか?災いをなすもの。呪う者だ。」
「あ。わかった。心霊写真に写るような人でしょ?」
「・・人、かどうかは俺にも分からんが・・。そんなような物だろうな。」
「どうして殿様は怨霊だったの?」
「・・。殺された。いや、俺も人を殺してきたから同じようなものだろうがな。酷く、その者を怨んだ。死ねば好いた者の傍に行くことができると思っていたが、その怨みが強かったんだろう。俺は、ここから・・。離れられなくなった。」
殿様は空を見上げ、口元を緩ませて軽く笑う。
「ねぇ。痛かった?」
「ん?」
「殺されたんでしょ?痛かった?」
「さぁ。憶えておらん。だから、死んだことにも気が付かなかった。」
「・・寂しかった?」
「お前は・・本当に不思議なことを聞くな。」
「だって・・・。ずーっと一人だったんでしょ?」
「いや。時々、こうして話をするものが現れた。お前のようにな。」
殿様は僕を見下ろすと、穏やかに笑った。
「僕が来て、殿様は楽しいの?」
「お前は楽しくないか?」
「・・・・。」
僕は、難しい顔をした。楽しいけど、楽しくない。嫌じゃないんだけど、なんか少し嫌で、殿様の顔を見上げる。彼はいつも少し微笑んだ顔だ。それが何故か少しだけ寂しく思えてならなかった。
「ねえ、ずーっと・・怨んでたんでしょ?どうしてやめたの?」
「・・シュクマ。という、坊さんが来た。怨霊を消すための坊さんはたくさん来たが、あいつだけは違った。」
「どんな風に?」
「・・・俺と、約束を交わした。」
彼はまた、盃を口に運び、今度は一気にそれをあおった。そして一息つくと、軽く唇を舐める。いくら呑んでも顔色一つ変わらない。パパだったら、真っ赤になるのにな・・。
「愉快な坊主だった。俺にこうして・・酒をくれた。」
白い盃を手の中に包み、軽く握っては掌の上に置く。それを床に置くとまた酒が溢れ、殿様はそれをゆっくりと口に運んでは盃を握り締めた。
「それで?」
「ああ・・。それで、・・。」
殿様は何か、ゆっくりと思い出しながら喋っているように見える。多分、忘れちゃっているんだ。ずーっとずーっと前のことだから・・・。
「約を・・交わした。」
「どんな?」
「・・・。シュクマは・・。俺に、ここが好きかと聞いてきた。俺は、好きだと答えた。ここの何が好きだと聞くから、月が見えるから好きだと・・答えたんだ。」
部屋の時計がボーン・・と鳴り響き、不意に殿様は盃を縁側に置くと、空を見上げた。
「・・さて、馳走になったな。」
「えー。もう行っちゃうの?話の続きは?」
「・・月の出る晩。俺はここに来る。」
殿様はそういって・・スーっと消えてしまった。
「ただいま、紅羽ちゃん。何をボーっとしているんだい?眠いのかい?」
帰ってきたばあちゃんに肩を叩かれ、僕は何故かばあちゃんの顔をじっと見つめていた。