夜の月の殿様

 
 満月のあの日。殿様は・・両目から一粒ずつの涙を流した・・。空を見上げて・・・消えた。
あの日から、殿様はいなくなった。毎日ばあちゃんは盃にお酒を注ぎ縁側に置いたが、いくらどんな月が現れようと殿様の姿は見えない。あの時。僕がどんな言葉を言ったのか。僕は思い出せない。僕の夏休みは終わり、東京の家に戻り・・。その後、何度か遊びに来たが、殿様はいなかった。

 ばあちゃんの急死を聞き、慌ててきたこの家。そこではじめて、いっくんを見た・・。白い着物を着るばあちゃんの顔の隣で、じっとばあちゃんの顔を見据え座る一歳の子供。いつもばあちゃんと一緒にいて、遊んでもらっていた。そう・・彼の母は言った。言葉を発しない子供。叫ぶことも、泣くことも。笑うことも無く。ただじっとばあちゃんの隣に座り、夜になり月が出ると縁側に座る。空を見上げ・・・。僕が隣に座ると、彼は僕を見上げた。じっと僕の目を見据え・・。動かない子供。いっくんは、そんな子供だった・・。まあ、今も子供だけど。
僕は大学進学に、この家を拠点に考えるようになり・・。長野の大学に進学した。ここが思い出の土地だから。理由はそんなものだったような気がする。今の今まで、殿様の事なんか頭の隅にも無かった。今、ここには殿様はいない。不思議と、盃を縁側に置く儀式のような風習もしなくなってしまった。だけど、家が壊れることも、誰かが呪われるようなことも無い。アレは・・僕の夢だったのだろうか・・。


 「え・・?引越し?」
妙寺家総員が家の玄関にやってきて、父親がそう告げた。
「ええ、急なんですが、転勤でして。九州に・・。」
荷積みを終えたトラックが控えており、今まさに出発するところだ。
「あ・・。そうですか。寂しくなりますね。」
「ええ・・。特に、こいつが・・。昨日から泣き叫びっぱなしで・・。」
彼の胸に眠る小さな体。末っ子の一清くん。その頭を優しく撫で、僕は苦笑いを浮かべた。
無表情が多かったいっくんが、泣き叫ぶことなんてあるんだろうか・・。
彼らは回りに挨拶回りをしなければならなく、頭を下げる。そのとき。いっくんは起きてしまった。しきりに目を擦り上げ、すぐに起きようとしているのが分かる。彼が寝ている隙をついて出発する作戦だったのだろう。お父さんは彼の背中をゆっくりと撫で上げ、もう一度眠らせようとしている。いっくんが僕に引越しを告げなかったのは、彼自身がそれを聞いたのが昨日だったからに違いない。泣き叫ぶほど嫌がる。両親はそれを知っていたのか・・・。目覚めてしまったいっくんは突如暴れ、父の胸から降りた。目を見開き、僕を睨むように凝視する。その目は赤く腫れ上がり、一番中泣いていたことを裏付けた。
「俺、嫌だ。行きたく無いっ。」
彼の精一杯張り上げた声。小さな手で拳を作り強く握り締めている。
「いっくん・・。」
「俺、まだ果たせてない!嫌だっ。行かない!」
ため息を付きながら、彼の手を取ろうとする父親の手を振り払い彼は大粒の涙を流した。駄々をこねる彼を見るのははじめてで・・。どうしていいか困るが、僕は彼の前にしゃがみこんで右手の薬指を立てた。
「ねえ、いっくん。いっくんが大きくなって、一人で暮らせるようになったら。ここにおいで。僕、ここで君を待ってるから。ね。・・約束しようよ。」
いっくんは僕の手を思い切り叩き、周りにパチーンとした音が響く。
「また約束で縛る気か!俺は何も果たせていないのに・・。もう、二度と約束なんかするもんか!!約束なんかだいっ嫌いだ!!」
叩かれた手の痛みより、彼の叫びのほうが強く胸を締め付けた。大人の他愛の無い口約束。それが、彼にとってどんな・・苦痛なのか。
「い・・いっくん・・。」
僕が声をかけ、彼の一番上の兄が彼の頭を撫でた。彼がいっくんの前にしゃがみこみいっくんの止めど無く流れる涙を拭う。
「一清。男なら泣くな。他の者が辛くなる。・・いいか。今は、発達した通信手段がある。手紙も、電話も。ただ、今お前は幼い。果たせない約束は山のようだが、お前が心身ともに大きくなるとそれが可能になる。それまで待っても遅くはないだろう?」
「・・・。」
「今、背伸びをしても無駄だよ。それまで。待てばいい。お前が待ってきた時間よりは遥かに少ないと、兄ちゃんは思う。」
「・・・。うん。」
「よし。しばしの別れを告げろ。男らしく。」
お兄さんは泣き止んだいっくんの頭を撫で立ち上がった。僕より少し大きい、彼の身長から僕を見下ろすその目は・・何処か、父親のような雰囲気だ。兄というよりは、より近い存在の親なのだろう・・。
「紅羽。俺、・・約束、しない。でも・・。約束を果たせるようになったら、・・守りに来る。失わない、強さを・・備える。だから・・。だから。俺より先に死ぬな。」
「・・うん。分かった。気をつけるよ。・・いっくんもね。」
「・・・ああ。」
彼は僕が出す手に握手も無く、首を振った。車に乗りこんでいく家族を見やりながら・・。ふと、また殿様のことを思う。手を振り、見えなくなる車を見送り・・・・。僕は、振っていたその手を眺めた。いっくんが叩いた場所が赤くなっている。
「ちっちゃいのに・・強い力だなぁ・・・。」
強い・・意思の塊・・。

 いっくんのいなくなった縁側。僕はその晩。二つの盃にお酒を注いだ。
一つを殿様に。もう一つを・・・。
 いつか・・来る。彼の為に・・。