気が付けば両腕は頭の上に持ち上げられ、その人物の片手でがっちりと押さえ込まれていた。唇には急き立てられるようなキスが繰り返され、着慣れている寝巻きが引き裂かれていく。息つく隙もない執拗なキスは生暖かい舌先が口の中に入り込むまではそれほど酷い嫌悪感はなく、むしろ心地よくもあった。服が破られていく音も求められる喜びの中では無音に等しかった。【怖い】【嫌だ】そんな言葉が脳裏をよぎり、身を捩るとこの手を掴む力が増した。両足を押し広げ、無理やりにも体を滑り込ませようとする意思・・。その彼の焦り。俺自身の拒絶感。そんなものが交錯し、強く閉じていた瞼を開けその彼を見やる。彼は・・・。見せることのないイヤラシイ目つきで俺を見下ろし、俺の喉仏に噛み付いた。死んでしまうような息苦しさに体を強張らせ・・・・・。
・・・気が付くと、いつもの自分の家のダブルベッドの上。こんな夢がここ何日か続いていた。隣で寝ているはずの同居人【高梁紬】の姿はなく、部屋には柔らかい珈琲の香りが漂い、何かを焼く音が聞こえる普通の朝。布団を剥がし、自分の体を見ても服は一糸乱れることはなく、悪夢のような夢からか少し汗が滲んでいる程度。何の変哲もない。枕もとの時計はまだ六時半を指していた。眼鏡をかけ、髪をかきあげる。ベッドの上で左足を抱き寄せ、煙草を手繰り寄せて唇に挟み込んだ。自分の唇に触れたが、何の変哲もなく違和感はない。そのまま何気なく煙草に火をつけ紫煙をくゆらせると、吐き捨てる煙と共に吐息がもれた。ここ何日か、俺はおかしい。それとも人並みはずれてセックス願望が強いというのだろうか。それも・・。夢に出た彼は大学時代から、今までずっと一緒に暮らしているだけのただの同居人。今まで何の感情も抱かなかった。金銭的に楽。ただ、それだけだったはずだ。深い溜息と共に頭を振りつつ、伸びた煙草の灰を灰皿の上で叩く。3LDKの狭さでは個室はなく、キッチンで食事の用意を楽しむ音が筒抜け。気晴らしに本が建ち並ぶ部屋に行こうにも、俺は寝起きが悪かった。タバコを揉消し、ふと見やる両手首。何の痣もない。夢。ただの夢。ただの悪夢だ。ポス・・っとベッドに倒れこみ、彼がいるはずの壁際の右隣に枕を投げつけた。
「・・どうして、俺が居るのに・・・左に来ないんだよ。」
ぶつくさとした独り言。
「それはお前が寝るのが遅いから。ハイ。おはよう。この頃寝起きいいな。」
そんな言葉で返され、起き上がる。笑顔と共に差し出されるお気に入りの赤いマグカップはふんわりとした甘い香りの珈琲で、暖かそうに湯気を上げていた。それを両手で受け取りつつ、何てことはないような、そんな返事を返す。
「飯、出来てるよ。ちゃんと目覚めたらおいで。」
「・・・。」
「・・あゆき?」
「・・う・・うん。うん。ん・・・。」
彼は軽くクスリと笑いながら部屋を出て行った。あの夢を見て以来、俺はしっかりと彼の顔を見ることが出来ずにいる。妙に意識してしまって、返事もろくに出来ない。言葉も交わせない。珈琲の深い琥珀色に見とれながら、ふーっと息を吹きかけて波紋を揺らした。自分の顔が揺れる。俺がこのベッドに入れない理由は・・。なんとなく気恥ずかしいから。夜、間接照明で照らされる彼の顔を見て赤らむ自分の顔。想像するだけで嫌になる。珈琲に一口口をつけ、ベッドから降りてキッチンに向かった。彼は食卓の椅子に腰をかけながら新聞を広げ、鼻歌交じりにマグカップを口に運んでいる。見慣れた光景なのに・・。腹が立つ俺が居る。朝、いつも食事を作ってくれるのは彼なのに。美味い珈琲を入れてくれるし、掃除洗濯といった家事はほとんど彼がしてくれる。俺が仕事や研究に没頭できるのは彼が居るからこそなのに、何故か彼が、彼の存在が忌々しい。彼の前に座り、何故かカップを強く机に下ろした。ガコン。そんな音に彼は新聞から視線をはなし、俺を見やる。俺は咄嗟にカップを眺め、彼との視線が交わらない努力をしていた。朝、機嫌が悪いのはいつものことで、彼は何も言わずに新聞に視線を移す。今日の朝食はハムエッグとトースト。君は半熟で俺好み。レタスとトマトのサラダも、綺麗な盛り付け。俺の嫌いなキューり。彼の好きな野菜・・。彼の方に盛り付けてあるスライスしたキューリを指で摘み、しばらく眺めてから口に入れた。しゃりしょりとした・・独特な食感と風味・・・。
「・・まず・・」
「・・・。あゆき?」
不信な目で見られ、俺は無理やりキューリを喉に流し込んだ。
「そっちの食べればいいだろ。ほら、ドレッシング。」
差し出されたドレッシングはノンオイルの青じそ。俺が受け取らないと、彼は席を立ってフレンチドレッシングを机に置いた。俺はフォークを左手に持つと、双方どちらのドレッシングもかけずにサラダに突き立て口に押し込む。パリパリのレタス。みずみずしいトマト。でも・・なんだか美味しくなかった。トーストを口に入れ、もそもそと食べ始めたが、彼はそのトーストを奪い、上にマーガリンを塗ってから返す。だけど・・。俺は、彼の手に触れたくないというだけでしたを向いたまま珈琲を口にした。彼は無言のままパンを机に置くと、一つ溜息をついてから自分も食事を始める。朝から気分悪いんだろうな・・。それは俺が仕向けていることであり・・。こんな自分が嫌になる。原因は、ただの夢なのだ。気持ちを切り替えればなんて事はない。だけど・・。
「あゆき?」
「ん・・?」
「食欲ないのか?どこか・・。」
「なんでもない。・・いつもの・・ことだろ。」
「・・まあな。でも、早くしなきゃ遅刻だ。急げよ。」
「・・う・・ん。」
彼は早々食事を終えて、新聞と共に席を離れていった。やはり俺は顔を上げられない。彼の視線を感じるだけでどこか怖くて、気が重い。泣きたくなるような衝動に駆られつつ、朝食を無理やり体に詰め込むと、珈琲で流し込んだ。洗面所のほうでは彼がドライヤーを使っている音が聞こえ、鉢合わせにならないようにと先に着替えを済ませる。彼が戻ってきて着替えを始める前に、偶然を装いながらすれ違って洗面所の前に立った。・・俺、疲れたような顔してる。眼鏡をとり、歯を磨いて顔を洗う。後ろから手が伸び思わず体を竦めると、彼は俺のネクタイを水から守ってくれていただけだった。タオルを渡され、顔を拭く。眼鏡をかけられて上着を着せられ、ネクタイを整えて貰い・・。
「よし。行くぞ。」
彼は二つのスーツケースと、車のカギを持って靴を履き、俺が靴を履いてドアの外まで出るのを待ってから家のカギをかける。彼は先に階段を下りていき、俺は上着のポケットから時計を出して右手首にはめながら、ゆっくりと階段を下り、階段下まできたグレーの乗用車の助手席に座る。彼が手を伸ばし、俺にシートベルトをかけ、彼の運転で出勤。これが・・普通のことだった。彼が世話を焼くのが好き。そう感じていた。俺の違和感さえなければ、この個室の雰囲気もただの仮眠タイムだったのに。妙に緊張して眠ることなど出来ないし、彼との会話もままならない。時間ばかりは遅く感じる。信号待ちが長い。張り裂けそうな気分だ。
「なあ・・。」
「ん?何だ?」
「・・たばこ・・いい?」
「・・・。ああ。」
車内は禁煙。そう言われていたはず。だけど、居ても立ってもいられない気分の中は煙草で紛らわすのが一番手っ取り早い。沈黙の後の了承。少し開けられる窓。俺は煙草の箱を見つめるだけでとうとうそれを口に運ぶことは出来なかった。彼が・・・怖い。職場である病院に入り、彼と離れ朝のミーティングの後ようやく煙草を口にすることが出来たのは昼に近かった屋上。ここ、小児科病棟の屋上はいつも子供が駆け回る場所だが、設置されているベンチに腰を下ろして空を仰いだ。抜けるような青空と真白い雲。次々と連なっているあの雲はなんていう名前だったっけか・・。
「あー。湯水せんせー。サボってるー。」
「んー?」
そんな声に耳を傾ける安らぎ。ベンチに腰を下ろす一人の子供。早見謙太。交通事故による内臓破裂。全治三ヶ月。この頃はよくここで逢う。子供の回復力は驚くことばかりだ。
「煙草。体に悪いんだぞ。多胡せんせーがいってたもん。」
「多胡先生?」
「うん。学校の保健の先生。だから僕、パパに言ったんだ。」
「なんて?」
「煙草は、ニコチンっていう悪い奴がいて病気になっちゃうぞって。」
「パパは煙草嫌いになった?」
「ううん。でも、二回のベランダですってる。僕やママに悪い奴が行かないようにって。」
彼は大きく頭を振って、この屋上にいる人々全員に届くような声でお話をしてくれる。元気に回復した証拠だ。そういった姿を見るのも好きだし、励みにもなる。嫌なことを忘れられる。
「でも・・。」
「でも?」
「パパが病気になっちゃうのは嫌だな。あ。でも、そうしたら湯水せんせーが治してくれる??」
「俺が?いいよ。」
「ほんと??んー。でも、せんせーもタバコ吸ってるからなー。」
「・・うん。じゃあ、ケンちゃんのパパみたいにベランダに行こうかな。」
「ここだって同じだよー。」
笑いながらベンチから飛び降りるようにして駆けていく彼の先には、彼の母親の姿があった。彼が母親に飛びつき、こちらの方を指差して笑う。俺は彼女に一礼し、彼女も一礼して屋上から消えていく。彼の退院の日は近そうだ。タバコを吸い終え、幼稚園の園内のような医員室に戻ると部屋は慌しい雰囲気に包まれていた。一人のナースが近寄り、俺にカルテを見せる。患者は木島琉璃。五歳。朝から発熱があり、腹痛を訴える。適切な処置が行われているはずなのに、回復の兆しはない。カルテを受け取りつつ、机につくとその処方を一つずつ目で追った。発熱と腹痛。子供にはよくあることだ。風邪などの症状もなく、血液も正常。呼吸脈拍数は多少多めだが、発熱しているわけだし・・・。
「こりゃー、プラセボでも飲ませておけよ。お前と同じ、精神的問題。」
「・・俺と同じ?」
「そう。何かあったわけじゃないが、この子にしてみれば重要なことが起こってたってわけ。な。湯水。」
俺の肩を叩く精神科医【笠原洋】。俺と同じチームで、ここの常連。
「・・どういう意味だよ。」
「お前にも何かが起こっている。」
笠原は俺を指差した。俺はその手を払い除け、ばかばかしいと愚痴る。椅子の背もたれに身を預け、髪をかきあげた。
「その証拠にイライラしているし、覇気がない。タバコの量も着実に増えているし、確実に食欲がない。事実・・・目が死んでるよ。口で笑って、目は真顔のままなんだ。」
「・・そうか?」
「ああ。子供たち心配してたぞ。せんせーが変ってさ。」
「・・うん。・・変なのかもしれない。俺・・。」
溜息をつき、ふと笠原に右手を掴まれた。俺の手は机に肘を付き、口の方に向かっていたからだ。考え込むときの癖らしく、いつも気が付くと親指の爪が磨り減っている。
「あ・・。」
「やめとけよ。綺麗な手なのに勿体無い。それより、後で話を聞く。言うことまとめて置けよ。」
彼、笠原は机の上のカルテを掴むと、数人の医師と共に背中を向けた。
午後も、急患はなく平常運行。いつもこんな穏やかだったら・・医者は無用だな。ナースたちも交代の時間でまばらになり始め、俺は数人のカルテに目を通していた。そんな時、俺の白衣を引っ張る小さな力に気がつき下を向く。その子は、ピンク色の流行のアニメのプリントをした寝間着姿で、人目を避けるかのように小さくしゃがみこんでいた。
「どうしたの?」
声をかけると、俺を見上げて小さな声で語りかける。ひそひそ話をするような手つきだ。俺は椅子から降りて彼女の隣に膝をつくと、彼女は俺の耳に小さな声でいった。
「あのねえ。さやのね。」
「うん。」
「おしっこがね。」
「うん。出ないの?お腹痛い?」
「ううん。・・赤いの。」
不安げに小さく首を振る。俺は彼女を抱きかかえると、立ち上がった。
「さや、病気なの?」
「ん?大丈夫。ベッドに戻ろうね。」
・・・・・。血尿。腎不全・・・。生まれつき腎機能が低下しているため起こりやすい症状ではある。とりあえずの処置として点滴をナースに指示しつつ、精密検査至急とカルテに書き込んだ。西野さやか。大人しく、何をしても控えめで・・。部屋に戻り、拳を握ると机に叩きつけた。今の医学を持ってしても治せないものは百万と存在し、医学が無力だということを思い知らされる。それに、俺はまだまだ無学で力が足りない。やるせない気分を振りほどくように頭を振ると、机についた。「仕方ない」そんな言葉は・・要らないのに。脳裏に浮き出る嫌な言葉だ。
「湯水先生。代わりますよ。」
「ん。・・もう少し居ます。」
「でも、相当お疲れのようですが。」
「あ、もう少し。あの子の・・。西野さやかの病状が安定するまで・・。」
「解りました。でも、思い入れのし過ぎは体に毒ですよ。」
「・・はい。」
割り切れ。そう・・頭ごなしに突きつけられたような気がした。