「よう。今日は随分と機嫌が良さそうじゃないか。湯水。」
紙コップの珈琲片手に現れる彼。笠原洋。この医員内でも抜きん出た精神医学療法士だが、とかく甘いものが好きだ。見た目より多そうな体重に彼の細い足はいつまで持つのだろうかと思う。とりあえずに見繕う椅子に腰掛けその背もたれに体を乗せる。機嫌が良さそうなのは俺ではなく、彼自身のように見えるが俺はカルテに目を落としながら眼鏡のずれを直した。
「今日さ、これ。見に行かないか。貰ったんだ。」
手品師のように掌から取り出して見せる二枚のチケット。
「人気らしいけど、・・どうだ?湯水。」
「遠慮するよ。フィクションは好みじゃない。」
間髪いれず断ろうとしたが、彼も負けてはいない。それもそのはず、彼はあの高梁紬の先輩で、高梁は笠原さんには勝てたことが無いと首を振ったことがあった。
「そういうと思った。だから、これは・・ノンフィクション。」
・・どうして貰ったチケットが運良くそういうものになるのだろうか。それに、いくらなんでも映画となれば脚色を加えているはず。オーバーなリアクションに、綺麗な発音の洗練され尽くした言葉。耳が悪くなるような効果音。ちらつく画面。暗い部屋に密集度が高い座席。独特の匂いと・・。上げればキリが無いが、そもそものあの場所が嫌いだ。
「まあ、戦争モノなんだけど。ラブストーリー的なものだと前評判が高かったさぁ。」
「行きません。どなたか、他の方を誘ってください。俺、映画は・・。」
「何ならいい?食事?スポーツ?検死、解剖、エトセトラ。何なら僕に付き合ってくれるかな。」
「・・デートの誘いなら、女にしてくれ。」
「女じゃ物足りないんだよ。・・湯水。」
「・・・高梁をからかってきてください。」
ふと、カルテから顔を上げ彼を見やると、彼は嬉しそうに口元を微笑ませそのまま珈琲を口に運んだ。見せていたチケットはいつの間にやら消えている。医師より、マジシャンになったほうが得な人生を歩めたんじゃないだろうか。
「いつ見ても綺麗だが、今日は特別に麗しい。さ。て。は。だ。お前・・したな?」
ドキリ。。とする意味深な言葉。思わず体が固まった。彼はそれを面白がるようにニタリと微笑むと、ふーんとせせら笑う。
「な・・・。か、笠原さん?」
「動揺した君も麗しいよ。」
「・・標的。変えられたんですか。俺はあいつより面白みに欠けますけど。」
「ん。そうでもないよ。以前より随分と柔らかくなった。肩肘張ってたってどうにもならないこともあるさ。お前自身の心。もうちょっと見直してみたらどうだ?」
「・・俺自身の・・心?」
「ああ。素直に、・・率直に。思うが侭に。したいように。押さえ込んだもの・・・。」
彼は、俺の手を取り飲みかけの珈琲の紙コップを握らせた。
「お前の悩んでいた理由も、お前の知らないところのお前が暴走していたからだ。それを預ける人が出来たなら、全部ぶつけてやれ。・・思い出せ。子供の頃、両親に我侭言って困らせていた自分を。押さえ込みすぎて、自分がどうなっているかわからない精神状態を見直せよ。」
「・・。」
「んん?解らないか?」
笠原さんの目の奥はとても深くて・・。吸い込まれそうなのに、何かを拒むように俺の瞼は閉じられた。精神科医の言葉。飲み込まれそうになる。それが嫌に怖くて、会話することを拒んでしまう自分が憎かった。すぐに目を逸らしてしまう。カルテを見ているはずなのに、その文字が頭の中に入ってこない。素直になれ。そういわれること自体が・・不安だ。
「湯水。それが今のお前だよ。受け入れればいい。拒絶しようとするだけ、辛くなる。」
「・・。俺・・。笠原さんのカウンセリング。辛いよ。俺が・・要求したことなのに・・ね。」
「僕が・・・憎い?」
俺は俯き、溜息をつきながら首を横に振った。手が震えている。手にした珈琲に波紋がたっている。
「・・少し・・・。怖い。俺が・・壊される・・みたい。」
むせ返るような吐き気が込み上げ、紙コップを握り締めた。当然、中の珈琲は溢れ手に伝う。その感触が・・気持ち悪い。
「・・ぁ・・・。」
「湯水。そんなに急激に変えようとしなくていい。少しずつ、ゆっくりでいい。湯水。湯水・・。」
笠原さんの言葉が遠のいていく・・。眼鏡を奪われ、視界が閉ざされ・・。
「湯水。ココだ。ココに戻って来い。湯水。わかるか?ここだ。・・湯水。」
閉ざされた視界は、笠原さんの胸の中。しっかりと抱きすくめられ、後ろ髪を撫でられる。それでも激しい嘔吐感は消えない。汗が滲む。
「ぁ・・。怖い・・ョ。たす・・け・・。」
・・・つむぎ・・。