[はじめまして。僕、榎本瑞貴っていいます。以後宜しく。」
そんな声にカルテから顔を上げ、伸びていた煙草の灰を灰皿の上に落とした。昨日の情事でか、
腰が落ち着かない。灰皿の上は、山盛りに煙草の吸殻が溜まり、その上からまた新しく煙草を押し付ける。ぼんやりする分、煙草の量が着実に増えていた。
「あのー。湯水先生?」
声変わりが済んでいない男の声。もう一度顔を上げると、その視線の少し上にその人の顔があった。
小児科病棟、きっての患者か・・。見た目、中学生か、高校生ぐらいの少年がそこにいる。
ただ、着ているものが看護士の、薄水色の作業着で・・。
「・・なに?」
「あ。僕、今日からこの病院の小児科に配属が決まった榎本瑞貴です。まだ新米なので、ご指導宜しくお願いします。」
ぺこり。と下げる頭。ゆるいパーマをかけたようなふわふわの柔らかそうな髪だ。茶パツ、というか・・金髪というか。顔を上げたその瞳は深いブルーで、頬に少しそばかすがある。
「・・そう。よろしく。」
「えっとぉ・・あのぉ。それで僕は何をしたらいいんでしょう?」
[担当は俺じゃない。」
俺は顎で婦長を指し、新たに煙草をくわえた。しかし。委員長も、人選考えればいいものの・・。提携している大学病院に、もっとマシな人材はいないのか?何でこの時期に新人ばかりを・・。
[体に悪いですよ。」
火をつけようとしていた煙草を取られ、机に置かれた。疲れからか、溜息も出ない。
朝、綺麗に整えてもらったネクタイを緩め、シャツの第一ボタンを外す。まだ隣に突っ立っている榎本を横目に、もう一度カルテに目を落とした。何かが腹立たしく、不安で・・。落ち着かない。いつかどこかで感じた感情。どこで?・・さあ。一度手に入れたものがなくなるような・・・。
[湯水先生・?どうか・・?」
榎本に肩に触れられ、咄嗟にそれをはじき返した。無意識に立ち上がり部屋を出る。
気が付けば屋上にいた。金網の前のコンクリートに、膝を抱えて座り、ぼんやり景色を眺める。
その隣には人影があり、俺より一回り大きな体は俺と同じように真っ直ぐ景色を眺めて座っていた。
「・・高梁・・。」
「ん・・。気が付いたか。」
彼はおもむろに、白衣の下のシャツから煙草を一本取り出し、自分でくわえて火をつけるとその煙草を俺の口に持ってきた。素直にそれを受け取り、煙を肺に吸い込む。ひどく強い風がふいていて、煙草の煙はあっという間に流されていった。
「・・秋だなぁ。」
彼はポツリ、呟く。彼が好きな季節はいつだったかな・・。そういえば、誰かも秋が好きだったっけ・・。
誰だかはよく思い出せないけど・・。
淡い紫煙が立ち上る前に、風にかき消されていく。煙草の・・赤く燃える炎。・・赤い・・。
「あーっ。こんなところにいらっしゃったんですかー!!これじゃ、いくら呼び出しても解らないはずだよ。湯水先生。」
何かを思い出しかけていたところを、ひょんな声にかき乱され、落ち着いていた気持ちがまた揺らいだ。また、イライラする。立ち上がり、振り向きざまに髪をかきあげた。見下ろさなければならない位置にその声の主の顔があり、その彼は俺の顔を見上げ、少しきつい眼差しで見つめる。
「・・ああ。行くよ。君、名前なんだっけ。」
「榎本瑞貴です。」
彼の膨れっ面はまさに子供の表情。身長、声、仕草。何もかも、子供だ。患者ならば優しく対応できるが・・。彼は違うんだよな??混乱する。
「で、誰が俺を呼んでいるんだ?」
「え?えっとおー。・・。」
彼は俺の質問に、戸惑いポリポリとほほを掻く。一体・・何のために俺を呼びに来たのか・・。
「あのなぁ・・。」
「いいじゃないか。湯水。行けば解る。事は緊急を要することではないらしいし、仕事に戻ろう。」
そういいながら立ち上がる高橋。高梁が立つと、榎本との身長差が露になる。
「優しいんだな。高梁は。」
「・・湯水。お前だって新人のときはあっただろう?それに、これは小さなミスだ。目くじらを立てるようなことじゃない。お前。何にイラついているんだ?」
「解らない。・・もういい。戻る。」
二人を置き去りに医員室に戻る。この、俺の行動の方がずっと・・子供のようだな。溜息も出ない。
仄かに香る珈琲の香りが近づき、紙コップが机に置かれた。笠原さんかと思い振り向くと、そこにいたのは・・当病院医院長。湯水俊保。立ち上がろうとした俺の肩を下ろし、彼は突っ立ったままにこやかに微笑んだ。
「探したぞ。」
黒に近いグレーのスーツに身を包み、左腕には豪華な時計。短く刈った髪をそのままにしてある、スポーツ狩りのような髪型。医院長としては威厳のないような素振りの男。前医院長の長男で、俺の兄にあたる。専門は循環器系の外科だが、専ら研究に忙しい。
「話があるんだが、今日の夕食を共にしないか?迎えにくる。」
「・・・どういったご用件ですか。」
「いやなに。久しぶりに、家族とのだんらんを、とね。もう一つあるんだが、それは親父の口から出る。
夕食を断るような理由はないだろうな。あゆき。」
ポンポンと肩を叩かれ、小さなカードを俺に差し出すと、そのまま立ち去ってしまった。温かい珈琲が湯気っている。小さなカードには、[必ず。]と書かれているだけで何時に何処に、とは記されていなかった。あまり、乗る気じゃないな。周りで、看護婦たちが兄の噂話に花を咲かせていた。
気取らないいい男。ソレが彼の特長だったらしい。優しい人ではあるけど、印象に残るタイプじゃないな・・。
本来の仕事に戻り、カルテとにらめっこをしつつ、目に付くカード。そのたびに溜息が漏れた。耳に入る女の声。その中に、一つ。榎本瑞貴の声が混じっていた。聞いていることは、仕事の話じゃなくて高橋紬のこと。経歴や、専門。はたまたは女の数まで。さっきまで湯気っていた、兄が持ってきた珈琲を口に運びつつ唇を噛み締めた。今日は、総てにおいてなんだかヤルセナイ気持ちだ。
木島琉璃の出棺を終え、長い間その車を見送ったあと、その足で高梁のいる外科の病棟に向かった。いつも彼は彼専用の個室にいて、研究に没頭していることが多い。その研究をうちに持ち込まないことが彼の理念らしく、ここではほとんどの時間をその研究に費やしている・・らしい。その部屋に入るのは今日で何回目だろうか。その数は片手で足りるような気がしつつ、部屋の前に立ち、ノックをしようと手をあげた。
「高梁センセー。いい人、いらっしゃらなければ、僕なんてどうですか?」
・・・。聞き覚えのある声。確か、榎本瑞貴・・。行儀が悪いと思いつつ、その話に聞き耳を立てた。
「遠慮するよ。それに、君はもう少し仕事を覚えた方がいい。」
「そんな寂しいことおっしゃらないで。僕・・。」
これは・・時代劇か。いや、昼の連ドラ・・。これで俺がショックを受け、高橋と・・。喧嘩別れか。妙な連想をしている場合ではない。ドアをノックしないで開け、目の前にいる二人に・・。衝撃を受けた。
高梁が、榎本をベッドに押し倒している。・・何かの偶然。だろう・・。心を落ち着けたいが、そんな余裕はなくなっていた。
「湯水先生。いいとこなんだから邪魔しないでくれる?」
目の前で繰り広げられる・・。光景。高橋は有無を言わぬまま、榎本のキスを受け入れ・・。
誤解だ。なんて、漫画や、小説。ドラマのようなことを言ってくれればまだ気が安らぐが、弁解もない。このままそれを見ていることも出来ない。彼らを引き剥がせば、妙な立場だ。俺はゆっくりと唾を飲み込んだ。
「高梁。俺、急に・・。夜勤になったから。ごゆっくり。」
彼は聞いているのかいないのか。そう告げ、部屋を出てドアを閉めた。
所詮。俺の手に入れたものは・・消えてなくなる。あの日だって・・・・。
俺は全てを失った。・・手に入れては・・いけなかったのに・・。