切欠は春も間近に迫る、三月も終わり頃の一本の電話だった。久しぶりの休日と言うこともあり、ベッドで転寝をしていた。寝ているというか、どこか考え事をしていたというか。マンション更新の事を考えていたんだと、振り返るとそんな事を考えていたんだと思う。鳴り響く電話の呼び出し音。無視してベッドの中寝返りを打った。どうしてあの時・・。あの電話を受けてしまったのか。軽はずみな口調と共に響いた懐かしい声。俺を助けると思ってさぁ。などと都合のいい言い訳を耳にしながら、何となく分かったよと心にも無いことを口にしてしまっていた。電話の相手は俺が世話になった家の息子。つまり・・兄弟同然と暮らしてきた男で、名を藤崎登也と言った。俺より二ヶ月ほど早く生まれていると幾度となく強調し、兄ぶるところが鼻につくというか・・。目障りだったが、どこか心地のいいものでもあった。そんな男の久しぶりの声を聞いたからか。ふと心のどこかが緩くなったのか。今更後悔していても仕方ないと思いながら、やはり俺は後悔している。
「皓久。てーる。てるひさーぁー。」
遠くに居るわけでもなく何故か声を張り上げる登也。小さな荷物を手に、俺は深く溜息をついた。目の前にある建物を見上げ、また溜息が漏れる。築何年かは分からないが、古びた住宅街の一角に占める一戸建ての家。俺は今日からこの家の一部屋に・・住むらしい。ルームシェアだかなんだか・・、登也の説明は良く分からないところがあり、会社に近いという理由のみで引き受けたのだ。それが後悔の始まりだった。いや、今まさに後悔している。このまま踵を返しもと居た部屋に戻ろう。何度目かの溜息が漏れる中、登也が目の前に立ち俺を見上げた。
「皓久ってばよ。本当に荷物これだけか?」
「・・帰る。」
「は?」
「俺は帰る。お前の口車に乗せられたとは言え、こんなところには住めない。」
「まーまーまー。」
登也はニヤニヤと笑いながら、俺の肩を軽く叩いた。
「悪いところじゃねーって。家賃六万五千円。敷金礼金なし、更新料もなし。飯も作ってくれるし、洗濯掃除もしてくれる。そんな物件ないぜ?」
「そんな事はどうでもいい。俺は共同生活は出来ない。」
「慣れるさ。」
登也は軽く肩を竦めると俺が手にしていた荷物を引っ手繰るようにして奪い、すたすたと家の中に入っていってしまった。昔からあいつは強引だ。それに逆らわずしていたが、今度ばかりは・・嫌気が差す。幸い財布はポケットにあり、今日のところはカプセルホテルで済ませよう。登也が戻る前に姿を消そうと振り返ったが、目の前にはきょとんと俺を見上げる少年が立っていた。まだ幼さの残る顔立ち。くりくりとした大きな目を驚いたように見開き俺を見上げていたが、不意にニコリと微笑んだ。この家の住人だろうか・・。
「新しい人?」
高い声。小首をかしげる仕草は本当に幼い子供のようだ。無視して通り過ぎようとしたが、後ろから登也の声が聞こえた。駆け寄る足音が聞こえる。そのまま逃げればいいものの、何故か俺の足は動かすのを止めていた。また溜息が漏れる。
「とーくん。この人?」
「ああ。皓久、紹介するよ。この・・。」
「住む気はない。」
登也の言葉を遮るよう、振り向かずに言い放った。この際、荷物などどうでもいい。いち早くこの場所から離れたい。住宅街の一戸建て、他人と顔を揃えて仲良くなんてごめんだ。歩き出そうとしたが、腕を掴まれた。その手が登也の手なら無理やりにでも振り払ったが、俺の手を掴んだのは先程の少年。じっと俺を見上げ口を尖らせている。
「離せ。」
「いや。」
「・・離せ。」
「いーや。やだもん。」
殴りつけたい衝動に駆られた。聞き分けのない子供のような口調。真っ直ぐな視線。虫唾が走る。
「かな、楽しみにしてたんだもん。新しい人来るの、待ってたんだもん。」
そんなこと・・知るか。無言のまま腕を振り払うと、彼はよろけ後ず去った。転ぶ・・。咄嗟に手を伸ばし少年の腕を掴むが、それと同時に彼の後ろに男が駆け寄り彼を支えた。男は少年の体勢を整えなおし、優しく声をかける。可愛らしく頷く少年。掴んでいた少年の腕を放し、立ち去ろうと踵を返したが今度は大きな紙袋を抱えた何者かにぶつかり・・。驚いた拍子に投げ飛ばされた紙袋。その中から飛び散る様々な食材。見る限りスローモーションのようにゆっくりと飛び散っているように感じたが、ドサリとした音と共に散乱する荷物を見下ろす限り現実らしい。俺は溜息をつきながら、ペタリと尻餅をつき放心状態で座り込む男に近づき仕方なく手を差し出した。
「悪かった。」
「・・あ・・。」
驚きの余り声にならないのか、彼は小さくそう漏らしながらあたりを見回す。散乱したものを眺める中俺が差し出す手に気がついたのか、地面についていた手を軽く叩いてから俺の手に手を伸ばした。軽く引き上げたつもりが驚くほど軽い体に彼は俺の体にぶつかり・・。体というか・・頭つき・・状態。手を離す間もなく、彼はまた地面に尻餅をついた。
「皓久、お前・・何やってるんだ?」
「・・何も。」
登也の声に苛立ちを覚えつつ、掴んだ手をもう一度引き上げ彼を立たせた。手を振り解きつつ、その手で自分の頭を撫でる。最悪だ・・。
「ほへー。登也の弟って言うからどんな奴が来るかと思ったけど。意外に紳士的じゃん。周りが見えないドジっ子らしいけど。」
少年を支えた男の声だろうか。人を褒めているのか貶しているのか、あざ笑い口調の低い声が響く。
「れーん。それってどういう意味だよ。俺が紳士的じゃないみたいじゃん。」
「登也のどこが紳士的なんだよ。って・・似てねーな。背も高いしさ。俺と同じくらい?」
「俺が紳士的じゃないっつーのは聞き捨てならないけど。まあ後で話すよ。とりあえず・・拾うか。」
登也と男の会話を耳にしながら、俺はまたと息をついていた。見下ろせば無数に散らばる食材が地面を埋め尽くしている。ぶつかった俺が悪いのか・・。仕方なく目の前にあるにんじんを掴みあげ、頭突きしあった男に掴ませた。彼はもう既に両手いっぱい荷物を抱えていたが、慌てて俺からにんじんを受け取り軽く頭を下げる。暗そうな・・伏せ目がちの男。彼はそのまま荷物を抱え家の中に入って行った。
「皓久。何ボーっとしてるわけ?ほら、入るぞ。ベッド組み立てないと今日お前寝るとこないだろ?」
「・・登也。俺は帰る。ここには住まない。」
「帰るってどこにだよ。マンション契約切れだろ?明日から新しい住人来るって管理人さん話してたぞ。どうでも嫌って言うなら仕方ないけど、今日ぐらい我慢しろよ。ほら。」
呆れ顔の登也に服を掴まれ、家の中に引きずり込まれた。昔から・・登也には頭が上がらないところがあって・・。仕方ない。仕方ない・・。今夜だけ。覚悟を決めながら靴を脱ぎ部屋に上がる。外観より内装は新めで、フローリングの床には綺麗にワックスが塗られていた。真っ直ぐな廊下が伸びていて、目の前の扉はトイレだと登也が指を指す。そのまま進むと風呂だそうだ。階段隣の部屋が食事スペースと住人のコミュニケーションスペース。住居は二階だといいながら登也は階段を上がり、仕方なく俺もその階段を上がった。部屋は四つ。登也はどこが誰の部屋だと説明していたが、俺は聞く気も無いので受け流した。一番南向きだという部屋のドアを開けると、10条ほどのがらんとしたスペースに俺の荷物がおかれていた。
「な。家賃のわりには広くていい部屋だろ?トイレ風呂は共同だけどさ。住人はさっきの三人を含め、俺と千景だけだから。」
登也は振り返りにこり笑顔で俺を見上げた。千景というのは、登也の恋人の・・男。以前一度だけ紹介されたことがある。何もかも長続きしない登也にしては随分と長い付き合いだ。別に男同士の付き合いに異論はないが、ここの壁・・厚いのか薄いのか。いや、ここに住むつもりはないのだからそんな事どうでもいいか。
「荷物ほどき、手伝うか?」
「解くつもりはない。」
「・・皓久、お前相変わらず頑固だな。いいか、住めば都って言うだろ?お前なんかどうせもどって来ても寝るだけなんだろうからさ。ちょっとは我慢しろよ。俺の顔も立ててくれって。」
「お前の顔なんか立てて何になるんだ。」
「さあね。何かにぐらいにはなるだろ。諦めてベッドぐらい組み立てな。メシ、一応は七時だけど自由だぜ。諦めついたら降りて来いよ。住人に紹介するからさ。」
登也は軽く息をつきつつ、俺の肩を叩いて部屋を出て行った。パタリ・・。ドアが閉まり俺はまた溜息を零す。登也は、俺が自分には逆らわないと知っているのだ。諦めろといわれればそうすると・・。そう。今までの経験上、俺は何故かどうしても登也には・・頭が上がらない。幼い・・あのときから。俺は溜息を零しつつ、軽く頭を振って仕方なくベッドを組み立てた。壁に立てかけてあるマットをベッドに敷き、また溜息交じりにそれに腰を下ろす。まとめてある荷物の中の布団が入る袋を眺めつつ、また・・と息が漏れた。後悔・・しっぱなしだ。何でこんな選択をしたのかと途方にくれる。明日は旗日で・・休日。明後日がその振り替えでまた休日。二日もあれば新しい気に入る部屋が見つかるだろう・・。マッドの上にごろり寝転がり、暫く目を閉じていた。何もする気が起きないままただ時間が過ぎ去るのを待つ。そう言えば・・この部屋、鍵はかかるのか?不意に体を起こし目を開けると、目の前にはきょとんと目を見開くあの少年が俺を見下ろしていた。
「ああ・・よかったぁ。死んじゃってるのかと思った。」
彼はそんな事を口にしながらニコリと微笑む。そして両腕を腰に当てると、態勢を前のめりに傾け俺に顔を近づけた。彼の前髪がさらりと揺れる。小さな顔に大きな瞳。本当に・・大人なのか子供なのか。
「荷解きも出来ないくらい疲れちゃったの?ご飯だよ。」
少年は俺の返事も待たずしてニコリと笑うと、何か楽しげに笑いながらくるり踵を返し走り去るように部屋を出て行った。荷解きする気はない。そう言葉を返しても彼には通じないような気がする。ご飯だよ、そういっていたが行くか行かないかは自由だろう?馴れ合う気は・・ない。そうは言っても、さすがに腹は減る。朝からごたついていたせいで何も口にしていない。近くに・・コンビニはないのか。ベッドから立ち上がり、吊り下げられていたカーテンを開けた。南向きの部屋といっていたが本当にそうで、窓の外にはベランダがある。履きだし窓を開けそのベランダに入り、背の低い手摺に身を寄せた。見えるものといえば・・車道と一戸建ての家屋が立ち並ぶ住宅街。北側徒歩15分程度の場所に駅があり、その駅から三区間ほどでオフィス街に入れる立地。静かで・・何だっけ。不意に登也の誘い文句が脳裏を過ぎり、一人苦笑し首を振った。見る限り、こちら側にはコンビにはないようだ。駅近くに行けば何か・・あるだろう。登也運転の車に乗り、つい寝てしまったのが明暗を分けたということ・・か。街並みを見ていれば今ここに居ることはなかっただろう。俺はどこか・・抜けているのか。
「おい、メシ食わないのか?」
急にそんな声が聞こえ慌てて振り向いた。先ほどの少年を支えた・・背の高い男が部屋にいて俺を見つめている。ここは・・無法地帯か?人の部屋に勝手に出入りする人種・・。居や・・。ここは俺が住む場所じゃなくて・・。・・。
「飯だってば。あんた、耳でも遠い?」
「・・行くか行かないかは自由じゃないのか?」
「自由・・だけどよ。とりあえずの自己紹介ぐらいして欲しいぜ。今日から同居人だろ?一つ屋根の下ってね。下に集まってるんだけど。あんたのために・・さ。」
男は投げやりにそういうとポリポリと後頭部を掻いた。俺のためになんて集まる必要はないと言い返したかったが、登也の顔を・・汚すことも無い。あいつの手前・・仕方ない。しかし・・。
「俺の事は登也に聞いているんじゃないのか。今更必要ないだろ。」
「あのさ。こういうのは本人の口からってのが筋じゃねーか?ほら、ツンケンしてねーで顔ぐらい出せよ。」
彼はまた後頭部をポリポリ掻きながらくるり身を翻し歩いていく。何となく飄々としたような・・つかみ所が難しい男だ。彼が部屋から出て行くのを確認しつつ、何故かホッと胸を撫で下ろしながら俺はまた手摺に身を預けた。何となく・・吹きぬける風が心地いい。高層マンションで感じる風とは違って温かくて・・柔らかい。こんな場所もいいかもな・・なんて思いかけて慌てて首を振った。時折感じる人恋しさ。そんなものを蹴散らすよう強く目を閉じ息をつく。ここに居ても仕方がない。・・女でも・・抱きに行こうか。
「飯だって言ってるだろ。」
突然の声に驚き振り返ると、先ほどり男が俺の腕を掴み突如自分の肩に俺の体を乗せ・・。軽々と俺を担ぎ上げた。俺の体は平均身長より高く・・。などと思うことも許されないような呆気に取られる中、彼は俺を担ぎ上げ軽々とした身のこなしで歩いていく。目の前には・・背中。歩くたび揺れ動き息を飲む。担ぎ上げられたのは初めてだ。
「あ・・。お・・下ろせ。」
ようやく声が出た。彼は俺の片足を掴んだまま階段を下り始め、揺れは大きくなる。階段の段差か下る彼の足が頭に当たりそうで思わず息を飲んだ。階段を下りきるとようやく俺の体は彼から下ろされて・・。向かい合ってみると、身長は彼の方が少し高い程度。見るからに筋肉質というほどでも無いが体躯は彼の方がいいだろうか。呆然とする中、彼はドアを開け俺の背中を強く押した。無理やり押し込まれる形で部屋に入ると、パンパンと何か乾いた音が鳴り響き頭から紙ふぶきが降り注ぐ。
「ようこそ。ようやく顔見せてくれたね、皓久君。俺のこと覚えてる?」
ニコリ微笑む見たことのある顔と・・差し出された右手。握手を求めているのか・・。俺はその手を見てみぬ振りしながら頭を振り紙ふぶきを振り払った。ほとほと・・迷惑だ。
「あれ?覚えてない?俺、千景だけど。」
千景。そう・・そうだ。登也の恋人の男。俺より背は低いが、登也よりは少し高い・・。あの登也を抱くというもの珍しい男。確か・・年上だったな・・。
「覚えています。お久しぶりです。」
担ぎ上げられたことと、突然の紙ふぶきと・・。気が動転しているのか鼓動が早い・・。パタリドアが閉まる音がしてすぐ俺は肩を組まれ、身を竦めることも出来ないまま長机に招かれ椅子に座らせられた。目の前は空席。その隣に登也が座り、千景は登也の隣に腰を下ろす。俺を担ぎ上げた男は俺の隣にドカリと腰を下ろした。登也の後ろ側がキッチンになっているのか、俺と頭突きを交し合った男がエプロン姿で立っているのが見える。
「ほれ、皓久。自己紹介、自己紹介。」
目の前にいる登也がニヤリ笑い・・。千景が軽く拍手してみせる。まったく・・迷惑な話だ。登也には散々、俺はここには住まないと言ったのに・・。溜息が漏れると、隣の男が突如俺の肩に手を回した。馴れ馴れしさに憤りながらその腕を振り払う。いい加減にしてくれと叫びたかったが、深く息をつく事で紛らわせた。
「・・阿片皓久。」
溜息交じりに自分の名前を呟く。他に言う言葉も無い。
「ありゃ?藤崎じゃねーの?」
隣の男が声をあげた。それに対し説明することも・・既に面倒くさい。他のメンバーの名前を聞くのも馴れ合うのもここで飯を食うにも嫌気がさしている。ここにいる今の状況が既に・・嫌だ。立ちあがろうとしたがまた隣の男に肩を組まれ、その力に身動きも取れない。
「何か気にいらねーのは良く分かるけどよ。名乗った以上、俺の名前も聞いてけ。俺は向野錬。32歳の職業は医者。一応外科。」
力づくで何もかも押し込みそうな・・医者だな。32歳・・か。五つほど年上か。
「今度かなね。僕は一語哉弥。かなって呼んでね。本屋さんでアルバイトしてるよ。歳は17。あ、あーちゃんはいくつなの?」
向野錬と名乗る男の隣に居たのか、机に身を乗り出し俺を見つめる少年。
「・・あーちゃん?」
思わず声をあげていた。少年は強く頷くと、ニコリ微笑む。
「うん。阿片さんだから、あーちゃん。ねえ、歳は?かなより下ってことはない・・んだよね。」
どことなく残念そうにいいながら唇を尖らせる。17歳とは言え、俺の17歳のときとはかけ離れた存在。間の抜けたような喋り方と幼児口調。自分の事を名前で呼ぶか・・?憤りながら組まれていた腕を振り解き、大きく溜息をついた。
「登也と同じ。」
「だから、幾つなんだよ。自分の口で言えってば。」
向野錬が吐き出すよう声をあげる。溜息をつくのも・・玉切れだ。
「27。」
「じゃあ、かなと十違いだね。潮ちゃんとは五つ違いだ。」
分かりきった事を言い放つ少年。しょうちゃん・・とは、キッチンに立つ彼のことだろうか。向野錬が軽く手招きし、キッチンからそそくさと現れた彼は俺にペコリ頭を下げた。
「ここの管理をしています、工東潮といいます。歳はかなの言う通りで、阿片さんと五つ違いの22歳です。」
「苗字は違えども、俺の実の弟だ。両親の離婚の末ってやつなんだけどさ。んで、お前と登也は?」
工東潮と名乗る彼の後すぐ、向野錬が口を挟み俺と登也を顎で指す。両親の離婚の末?などというそんな話、聞きたくも無い。それに・・俺達は・・。
「似たようなものだよな、皓久。っと、当然俺達の自己紹介はしなくて言い訳で・・。潮君、メシメシ。」
黙り込む俺をフォローするように登也が口を挟む。工東潮はニコリ微笑むと軽く頷いた。
「阿片さん、カレーとシチューと、どちらがいいですか?パンとご飯は・・。」
「どちらでも結構。それより、この辺りコンビニは?」
「五キロほど離れた場所にありますけど・・。」
「どっち?方向・・。」
「皓久、子供の我侭のようなことしてないでいい加減にしろ。少しは仲良くしようという気は持てないのか?大人しく座ってどちらか選んで食え。」
戸惑う工東潮と俺を睨みつける登也。隣の向野錬が呆れたような溜息をつき首を振る。
「まーまあ。登也も怒るなって。阿片・・皓久君だっけ?一度潮のメシ食えば考え変わるから。パンも潮の手作りなんだぜ。ほらほら、どっちがいいか選んで選んで。」
場の雰囲気を壊していることは百も承知。馴れ合うことは望んでいない。ただ・・。登也がずっと俺を睨み上げていて・・。千景も困ったような顔をして俺を見つめている。
「・・カレー。パンで。」
仕方なく呟くと工東潮は穏やかに微笑み頷いた。俺の肩をぽんぽんと叩く向野錬。馴れ馴れしいが・・もういい。食えばいいんだろ。食えば。それぞれ運ばれたものを目の前に、俺の前だけにパンが置かれた。食事が開始され、慌しく工東潮が食卓とキッチンを行き来している。管理人をしていると言ったからそれが仕事なんだろうけれど・・。俺は思わず腰を上げていた。キッチンに赴き、彼が用意したお茶のようなものが入るグラスが載るトレーを掴む。
「え?あ、あの・・阿片さん。それ・・。」
「一人だけ動き回っているの・・迷惑なんだけど。食うと決めた以上、ちゃんと食うからあんたも座れ。」
「あ・・。はい。すみません。・・じゃあ、それ運んで貰えますか?あ、阿片さん・・お酒は?」
「今日は要らない。」
トレーを手に食卓に戻り机にトレーを置いた。椅子に腰掛けつつ、工東潮が席に着くのを確認してからパンに手を伸ばす。
「ふふーん。いいトコあるじゃん。それに・・今日は・・か。」
向野錬がにやつきながら口にした。それを聞き、カッと顔が赤らむ。思わず手に力が入り、手にしていたパンを握り潰してしまった。
「そんなに照れるなよ。阿片皓久。・・あーちゃん。」
「そ・・その呼び方止めて貰えますか。」
「ん。じゃあ、てる・・。いーや。あーちゃんだな。よし、俺はそう呼ぶことに決めた。俺は錬って呼んでくれ。年上だろうが気にするな。それから、ラフに話してくれよ。んで・・あーちゃん仕事は?」
まったくもって強引な男だ。俺を担ぎ上げてまでここに連れ出しておいてこの言い草と・・。彼の言葉を無視しつつ、握り締めてしまったパンを見つめた。手作りで焼いてくれたというのに悪いことをしたな・・。そんな気持ちも込み上げていたが、掌の中の潰れたものは徐々に形を取り戻し、目の前の籠の中にある丸い小さなパンに姿を取り戻していた。ただの素朴な・・パン。不思議に懐かしい感覚に囚われつつ、一口サイズに千切り口に運んだ。極端に美味いとか不味いとかそんな感覚も見出すことは出来ない、本当に素朴なもの。口に入れとけるものではなく、むしろ硬いように感じた。だけど・・。ホッと・・温かいような・・。不意に肘で体を突付かれ、我に返ると錬が俺を不思議な顔で見つめていた。
「あーちゃん、仕事は何をしてる?」
「ん・・あ・・うん・・。」
「うんじゃわかんねーってば。でも、パン美味いか?カレーも美味いぞ。」
「・・仕事・・。証券会社で・・。デイトレーダーの・・説明・・とか。・・うん。」
ぼんやりしながらまたパンを千切り口に運んだ。自分でも錬との会話が成り立っていないことは分かっていた。だけど本当に・・ほんわかとするような味と食感のパンに翻弄されているというか・・。先ほどまで張り詰めていたような気持ちから解放されていくというか・・。久しぶりに食事というものの感覚を取り戻していくような感じだ。錬はぼんやりする俺の腕を掴み、手の中にスプーンを入れると無理やりそれを掴ませカレーの中に突き刺した。無理やりされたことなのだが怒りが込み上げるということはなく、素直にカレーをすくい口に運ぶ。これも素朴。本当に・・家庭のカレー。力なくスプーンを掴んだその手を下ろし、俺はぼんやり俯いていた。誰かが俺の名前を呼んでいるが耳に届いているようなそうでないような・・。
「阿片さん。あの・・美味しくないですか・・?」
誰かの声にただ頷いた。スプーンでカレーをすくい口に運ぶ。
「美味いんだろ?」
そんな声にも頷いた。ただ・・本当に。頷くことしか出来なくなっている自分が居た。普段ではありえないほどのスロースピードで食事を済ませると、空いた食器が片付けられ変わりに湯気の立つお茶が運ばれた。俺の湯飲みは自分で用意するとかと・・声が聞こえたような気もする。両手で小さな湯飲みを包みこみつつ、ゆらゆらと立つ湯気を見つめて・・。俺は無意識に呟いていた。
「俺、ここに・・居てもいいですか・・?」
返事が返る事は望んでいなかったような気がする。だけど・・全員の声が揃い一言耳に届いた。
「もちろん。ようこそ、HOMEへ。」
・・家・・か。ただ・・ただ。懐かしい響きだった。