料理長の一言で場は微かにざわめいた。各担当料理のメインメンバーの発表の中、スイーツ部門の人材入れ替えが起こったからだった。当然メンバー形成に入っていて不思議と思われないものが格下げされ、去年ここに在籍したばかりの男が変わりに選ばれた。注目を集める新星。喜びを露にするかと思いきや、ただその事実を受け入れているようだったと人は語る。格下げされた男。それは・・自分自身だった。ショックというよりは、どこか・・分かっていたような気がする。そんな気持ちもあり、場のざわめきとは裏腹に何所となく落ち着いていた。
「安在。後で話がある。以上だ。」
料理長の冷ややかな声が俺の名を呼ぶ。俺はただ、無言のまま頭を下げた。

 最上級と名を馳せるホテル。その最上階に位置するリストランテ。景色が絶景であるといくつか番組に紹介されたこともあり、ここに訪れる客というものは途絶えることは無いように思えた。最高級を誇り、最高級なメンバーを終結し作り上げる料理の芸術空間。それが何を意味するのか。ただ、金を費やすための場所のように感じる。立ち居地にいたっては、特に利便性もなく営利性も薄い場所。なのにテレビなどで紹介され、ただその名声だけで成り立つような場所。俺はそんなホテルのレストランスイーツ部門スタッフとして、在籍していた。昔はここに就職できたことに誇りを持ち、勤め上げること十年。今はそんな誇りも失せて・・何か忘却の時を過ごすばかりだった。この業界に籍を置くと決めたその頃の思いは何所へやら。地位や名声。そんなものが何の役に立つのか。それを失う今。まざまざと思い知らされた。パティシェを目指した歳が遅いため、他メンバーよりは年齢だけは上だった。だから何か不利だとか、有利だとか言う話は何も無い。ここは完全なる実力社会。腕がものを言い、認められさえすれば新人だろうがメインメンバーに選ばれて当然な場所。自分の実力を過信するわけではないが、入ってから・・格下げされたことは無かった。それが過信というものだ。忘却の時間を過ごしていく時間の中。何が俺を突き動かすのか。暫くは格下げされた理由などを考えていることもあったが、今は・・。格下げの理由が分かる。俺自身、誇りを失い始めていたからだ。誇り。今までそんな思いが・・あったのか。どうしてこの世界に入ったのか。格下げされ一週間経過するこの頃、そんな疑問ばかりが脳裏を回る。いや、格下げを受ける前からそんな思いに囚われていた。それをきっと・・見透かされた結果だ。今週に入り、また主力メンバーの発表があったがその名前は変わることはなかった。先週、料理長は俺に話しがあると切り出したがそんな話は一切無かった。俺は・・あの時。近づけないような雰囲気を漂わせていたのか。主力メンバーの発表を終え、それぞれの場所に散る人の流れ。その中、思い出したかのように料理長が俺を見つめ、目の前に立ち塞がった。料理長はじっと俺の顔を眺めあげ、俺が逸らす瞳を追うように見つめあげてる。あまり・・見つめられるのは得意じゃない。
「安在。格下げされた理由を考えたか。」
考えていたようないないような。そう問われてはじめて・・考える時間を与えられたのだと感じた。料理長は俺が言葉を導き出す前に口火を切る。
「煙草をやめろ。それが・・お前が格下げされた理由だ。」
冷ややかな声は俺の気持ちとは違う言葉。多少なりとも胸が疼く。微かに動揺した。料理長はそんな俺を見抜いたのか、小さく息をつく。ゆっくり手を延ばし、俺の肩に手を置いて軽く肩を握り締めた。小刻みに揺らされる体。それよりは、俺の体を揺らす料理長の方が揺れているようだ。
「どうした、返事は。」
「・・はい。」
言われるまま声をあげ、小さく頷く。微かに笑う料理長。さらりと呟いた声が耳に届く。
「這い上がってこい。・・いいな。」
俺が頷くのを見届けるよう、料理長は俺の肩から手を離し姿を消して行った。軽く溜息が漏れる。
「這い上がれ・・か。」
一人ポツリ呟いた。それを誰が聞いたのか。忙しく作業に取り掛かる面々の耳に届くはずが無い。一人ここで苦笑しようものでも、それを気に止めるものは誰も居なかった。煙草・・。料理を生業とするものにとって、タブーとされるもの。いや、今の社会、ただの悪癖どころか迷惑行為とさえされる代物。この世界に入る前から、何となく始めたものが今の今まで。どうしても手を切る事が出来ないものになっていた。気がつけばふかし上げている。味が鈍る。そんな絶対的理由で敬遠されるもの。それが・・原因ならば。すぐに手を切れば済む。・・それが出来るのならばすぐにでも止めていただろう。一種の病気。そう捉えて病院に通院すれば簡単に手を切れるそうだ。そう耳には聞くが・・。どうしてかそんなこともしないまま。俺が・・悪いことは十分承知している。だけど・・。味が規定を満たさないという理由ではないことが少し・・腹立たしくも思えた。そんな感情が沸き起こっては見るものの、解決策もあるものの・・。俺はそれをどうしようとか考えては居なかった。格下げされたものにとっての仕事は料理に携わることでは泣くその後処理をすること。つまり。皿洗い。ただひたすらに、一日中皿を洗いながら、何所となくここから・・離れることばかりを考えていた。ここに来た理由。この世界に入った理由。一日そんな事を考えることもあった。共同生活を送る家もあったが、そこに戻ることもしないまま。ぼんやり過ごす時間が増えた。

 ここに在籍するようなった理由。それは・・まさに今考えれば単純なものだった。昔から、甘いという食べ物が苦手だった。けして、美味いと思うことが無く。その造形ばかりが目に焼きついた。それはとても綺麗な代物で、形ばかりが興味を引いた。子供心に、きっと・・ブロックを組み立てて遊ぶものの一つに過ぎなかったんだと思う。物心つく前から両親はなく、母は俺を私生児として産んでそのまま息を引き取った。どんな男の子供を身に宿したのか。名前すら言わ無かったそうだ。そんな境遇を哀れんでか、祖母は俺に大量の玩具を与え俺は一日中それを手に部屋で過ごす根暗な子供。その中の一つ、一番のお気に入りがブロックだったのかもしれない。あまり・・記憶は無いが。そう。俺は祖父母に育てられた。祖父は頑固で・・。小さな街のケーキ屋を営む職人だった。口数も少なく、いつも眉間にしわを寄せたような寡黙な男。祖母は対照的に良く喋り、明るく元気で優しい人柄の人だった。いつの頃からか、俺はケーキの形に興味を抱いた。形が好きだったのか。今も拘りがあるといえばあるが、その時の俺は大学で造形学を学んでいた。その頃を思い出すと、つい・・掌で形を作り上げる。そう。今も。
「何やってるんだ・・。」
一人。皿を洗いながら苦笑した。やはりそれを気に止めるものなど誰も居ない。形。それは・・俺にとって魅惑的な代物だった。あの頃も今も。形として思い描くのは、最終的に行き着くのは、祖父が作るケーキの形。昔ながらの苺のケーキ。真白いクリームに包まれ、柔らかい印象を与えて・・。食べるもの全てがどうしてか笑顔になるもの。無機質な形だけのものではない。何か特別な力を持ったものだった。

 大学卒業間近の事を不意に思い出す。あの時不意に戻った実家。俺が戻っていても居なくも、祖父はいつもキッチンに居た。耳に心地いいリズムを刻みながら、手作業でクリームを練っていく。シンプルなケーキを作り上げる仕草。いつまで見ていても見飽きない。俺が言葉を投げかける前に、祖父は・・戻れと言った。大学に戻れと。この世界は俺のような者に務まる物じゃない。そう続けられた言葉に俺はただ、頷いた。甘いものが・・嫌い。そう、ケーキ職人としては最大なる欠点だった。うん。・・そう頷きながらも、俺は祖父が作り上げるものを見つめていた。祖母も、俺が偉い学者さんになることを望んでいた。大学に入り、当然教授職について人々を導く。それが理想だと・・。現実に近いと良く笑った。あのときの俺もそのつもりだった。形を極めること。それも楽しい。だけどどこか、心のどこかで引っかかる諦めきれないぐらつく気持ち。祖父の言葉に頷きながら、心のどこかでは同じ舞台に立ちたいという気持ちが膨らんでいた。いつか・・店を継ぐと。出来ることはない事を望む心。そんな思いが、決心を鈍らせ続けていた。
「安在さん、皿足りませんけど。」
洗い物が溜まる。急かされるよう声をかけられ、溜息をついたわけではないが思いついた用に手を動かすと声をかけたものはそそくさと姿を消した。あまり物思いにふけるものではない。仕事として与えられたものを精一杯しなければならない。そうは思うものの、心はどこか昔に戻っていた。本当に・・大学に残るかどうするか。それを決断しなければならない時が迫る中。俺は・・俺はある・・ケーキ屋の前に居た。心が体を動かすのか。食べもしない。食べられない。美味いものではない。だけど・・。ショーケースに並ぶ色とりどりの鮮やかなものはどんな美術品より美しく見えた。お洒落なものばかりが並ぶショーケース。そんな中、目に付いたのは、ショーケースにさり気なく張られた料理学校の入学案内のポスター。大学教授からは、当然残るだろうといわれていた中。揺れる気持ち。膨らんでいく・・思い。出来ない。出来るわけのない憧れだけの世界。それでも俺の目は、そのポスターから離れなかった。昔も今も、脳裏に浮かぶのは、祖父の姿。ボールの中、手際よく練られていくクリームの柔らかな印象。心地良いリズム。それでも、祖父の言葉が俺を思い留まらせていたのは確かだ。俺には出来ない・・。何も買うこともなく、店を出ようとした時に声をかけられた。栢山リコ。そう・・恩師との出会い。無理やりにもキッチンに押し込まれ、着けた事すらないエプロンを体に回された。手には泡だて器。目の前には銀色のボール。そしてその中には練られていない生クリーム。
「一度体験してみたら?」
それが・・始まりだった。楽しい。そんな思いが胸を躍らせる。作り上げたものは確かに甘く、口には合うものではなかった。でも・・気持ちが満たされた。どこか・・嬉しくて・・。恩師の勧めもあり、それとなく・・進んだようなこの世界。二年のカリキュラム最後の項目として挑んだコンクール。そこで見事金賞を頂き、これを持って祖父に逢いに行こうとした矢先。祖父は・・亡くなったと連絡が入った。祖母の静かな声だった。俺がこの世界に在籍し始めたということ。そして・・それを何よりも喜んだのは祖父だったと。俺は祖父が、俺がこの世界に入ったとは言わずじまいでいた。言えなかった。大学の学費として送られる仕送りを、違う分野に投じていたから。止めろと言われたものに対し、向かおうとしていること。何も話せずに、隠していたつもりだった。作り上げたケーキを目の前に。俺は・・ただ、泣いた。笑いながら近付く恩師の声。金賞おめでとうと俺の背に触れた。泣いている俺を見て、彼女は嬉し泣きかと尋ね・・。俺は・・頷いた。何もかも中途半端。自分を偽り隠し、何が本当かも分からなくなった。恩師、栢山リコの勧めもあり。このホテルの調理部門に在籍して十年。格下げされた事実。脳裏に描かれ続ける・・過去。俺が求めていたものは何か。それを問い続けながら、無心に皿を磨いた。
 ・・ただ、皿洗いは嫌な仕事ではない。誰がどんなものを作り、どんな形を作っていたのか。皿に残るソースの雫を指にとり口に運ぶ。何を用いてどんな工程を辿るものか。味の深み。香り。パティシェそれぞれの独特な癖。頼むことなくそれを味わうことが出来る。それに用いた皿の形。どんな場所で、どんな形のものを飾りつけるのか。直線か曲線か。そんなものを考えることも好きだ。ただ、この仕事は新卒が行う行為として考えることがなければ・・最高な場所に思えた。休憩の号令が聞こえ、手を止め水を止める。10分ほどの休み。俺は・・止めろと言われたものを手にキッチンを出ていた。外階段に続く踊り場。ビル風が舞う・・隠れ場所。外の空気を感じながら壁に背を当て、風を遮りながら煙草を口に咥え火を点す。ふっと煙を吸いこみ、肺に満たし吐き出す。深呼吸にも似た行為。ただし・・脳に伝わる刺激は深呼吸とは違い、どこか・・満たされる。これが原因で降格されたというのに。それを今日の朝、直接言われたのに。既に手に取り肺を満たしている。何となく一人、苦笑が漏れた。俺はやはり、この世界には向かないのだろう。向かないと思い続ける場所に在籍し続ける理由や意味があるのか。実家に戻ろうかとも考えたが、現在・・祖父の店はもうない。祖母ももう他界した。母のほか祖父母に子供はなく、身内と呼べるものは・・居るかわからない父親だけ。相談するものもなく、資金も・・特に蓄えているわけではない。ほら。俺はどこか・・中途半端。一人苦笑が漏れる。何も自分では行動しない。流されることに関してそれを楽しむ傾向がある。青い青い空を眺めあげながら、ビル街を眺め・・強く噴き上げる風に髪を揺らした。はきあげ掻き消えていく白い煙。消えるわけではなく・・見えなくなるだけの人的公害。地球温暖化と騒がれる現在。これも・・この小さな火も。その原因の一つなのだろうか。下らないと思いながら、俺はまた一人苦笑した。息を吐き微かに首をふる。そんな中、背にしていた壁と繋がる重い扉が開いた。俺は思わず、煙草を隠す仕草をした。・・が、現れたのは同じスイーツ部門の男。彼は苦笑いしながら、俺の隣に立ち俺に向け味見ようの小皿を差し出した。白い皿に垂らされた一滴のカラメルソース。強い日の日差しに照らされ、綺麗に光り輝いていた。
「安在、・・味見頼んでいいか?」
申し訳なさそうに目を伏せながら、彼は俺に皿を突きつける。降格された男に何を求めるのか。そう言いかけそうになりながらも言葉を飲み込み、ソースを指につけ口に運んだ。俺の言葉を待つ男の目は真剣で、でもどこか・・自信がなさそうで。ソースは明らかに苦いだけで深みはない。
「・・風邪か?」
軽く流したつもりだったが、目の前の彼はただ大きく息を吐いた。あからさまに俯き、深く溜息をついて首をふる。スイーツ部門である証の白いシャツ。首に巻かれた黒いスカーフが風に揺れた。
「スランプといえば・・カッコいいかな。」
吐き出される言葉。何の格好付けだろう。そんな疑問がわくが、彼はただ苦笑いした。
「安在、お前は・・。実力あるしさ。料理長が言うように、煙草止めればすぐにメインメンバーに採用だからいいよな。それに比べて俺は・・。」
自信の無さか。彼は笑いながらも溜息をついた。その言葉に対し、俺はどういえばいい。そうだよな。何て・・言える事なのだろうか。違うよなどと否定してもどこかおかしいような気がする。迷ううち、俺はいつも無言だった。人とのコミュニケーションをとる方法。それがあまり得意なほうじゃない。適切な言葉を投げかけてやりたいと考えるが、思いつくボキャブラリーにも不足した。人とからみ難いとよく言われる。無表情、無感動。微動だにしない精神力。揺らめく姿を見たことが無いような自信溢れる男。そんな・・俺自身には欠片も無い噂が真実のように語られた。身長もあるせいか、それがどこか・・圧力を生むのか。威厳高いとさえ言われる。ただ・・迷っているだけなのに。
「・・休憩、終わるぞ。」
彼は軽い言葉を残し肩を落としてドアの向こう側に姿を消した。隠し持っていた煙草を見つめながら、短くなった煙草を最後の一口とばかりに肺に吸いこみ携帯灰皿の中に押し込む。彼に何て話し掛ければいいか。そんなことを考えながらドアを開け廊下を進む中、先ほどの男とサブリーダーが話しこんでいた。サブリーダーは彼が持つ皿を眺め、後から来る俺をちらりと一瞥して鼻でせせら笑う。
「降格された男に味見を頼んだのか。お前、プライドはどうした。」
あからさまに、俺は彼に・・忌み嫌われているようだ。無言のままの俺を見上げながら、サブリーダーは先ほどの彼が持つ小皿に指の腹を当て口に運んだ。
「うん。いいじゃないか。続けろ。」
吐き捨てた言葉。耳を疑う。俺の顔は、どうも感情表現が鈍いようだったが、サブリーダーは俺の疑惑など気にも留めることなくまた鼻で笑い職場に戻っていった。
「なあ・・。」
「安在。俺はお前の言葉の方を信じるよ。もう一度、トライしてみる。」
彼は笑い・・。意識を新たに立ち向かおうと自力で浮上した。目に見える意気込み。一人頷き、彼はサブリーダーと同じ場所に身を隠す。俺もその場所に行くのだが、どこか・・置き去りにされたような気分になった。それでも、休憩が終わるという声を聞き部屋に入り、また皿を洗う。先ほどの彼が破棄したカラメルソースの入る鍋も置かれていた。何気なく指ですくい口に運ぶ。やはり・・苦いだけのような。味覚の差なのか。これが、煙草の・・成せる業なのか。
「安在。雪月花作ってくれ。オーダー多数で終わりそうだ。」
「・・はい。」
チームリーダーの声に皿を洗う手を止めた。雪月花。それは・・俺がまだ学生だったあの時。祖父に届けようと躍起になり作り上げたケーキ。ただ、三層のクリームにはされまれたドーム型のもの。唯一、何となく口にしてもそれほど不味いと思わないものを重ねただけのもの。ただ、その内部に仕掛けがある。視覚的トリックを用いただけのものだが、何所をどう切っても、どう力下限を加えても。必ず隠された花が現れる。雪のドームの中からふわりと現れる花。月の様に丸い形。白いクリーム。十年前に金賞を貰うことが出来た唯一の作品。たぶん、ここに居る誰もが作り上げられるもの。だけど・・何故か。作品は他のものが手を出してはいけない。暗黙のルールのようなものが存在した。机の一角を借り受けながら、材料を用意する。雪月花。・・ホテル定番の、代表的スイーツ。他にも代表格はあるが、雪月花が一番安いという点で手にしやすいのだろう。材料は三種のクリームのみ。安価な食材だ。俺がクリームを練り始めると、それを見に集まる新人たち。一つでも技法を盗もうとする原動力。だが見られていることは苦手だ。一集に目くばぜをして群がるもの立ちを遠ざけた。そうそう・・。無駄に眼力があるともいわれる。俺は本当に、近寄りがたい存在なのだそうだ。・・そうかな・・。自分では分からない評価を勝手に与えられ、敬遠されることには慣れているから気にはしないが、回りから見て俺は・・そんなに気宇なるものなのか。時折それは気に止めることがある。ただ・・馴染めないだけなんだけど・・ね。一週間禁止されていたケーキ作りに興奮したのか、分量を多く作りすぎた。明日の分まで作ってくれたのか。などとリーダーに笑われたが、何故か当然のような顔もされた。そう・・。明日。俺は休みを与えられる。定休日が無いホテル業界のレストラン。シフト制で休みを与えられるが、見習いにまで降格した俺に与えられる休みは増える。一人で研究しろという時間なのだが、増えた休み。俺は・・何をしようか。それにそろそろ・・家に戻らないといくらなんでも同居人が不思議がるだろう。携帯に着信が増えていることもあり、休みも重なる。一度くらいゆっくり、ベッドに入ろうか。
 営業時間が終わり、最終的な皿洗いを済ませる頃には深夜を回っていた。見習いスタッフはこれから自分の腕を磨くための時間に入るが、俺は一人「お先に」と声をあげ帰路についた。スタッフ専用の地下駐車場に赴き、停めてある大型バイクに跨りながら飾りのようにかけられた眼鏡を拾い上げかけてからフルフェイスのヘルメットを被る。少し邪魔な眼鏡。だが、していないと違反になるのでしかたがない。バイクを走らせ、制服のままだと気がついた。が、それはもうホテルを出て二つ目の信号の赤信号で足止めを喰らったときだった。まあ・・明日は休みだ。洗濯も兼ねられるのだからまあ・・いいか。信号が青に変わる。深夜、昼間よりは車通りの無い暗い夜道を風を受け突き進んだ。都会の喧騒から少し離れた位置に建つホテル。癒しを求めてくるものたちの憩いの場所。そこからバイクで進むこと30分くらいの場所に、閑静な住宅街がある。都会には珍しいような・・そうでないような。ひしめくマンション街を抜けた場所に一軒家が立ち並ぶ一角がある。その外れあたりにある家が、俺が身を置く場所だった。同じホテルに勤める俺を含め男五人が共同生活をしている。帰宅が深夜であり、極力エンジン音を響かせないよう駐車スペースにバイクを寄せて、早々エンジンを切った。鍵を抜き、家の鍵を手探りで探りながらヘルメットを脱ぐ。鍵を開け、部屋に入ると風呂上りなのか頭にすっぽりとバスタオルを被った顔が俺を見つめた。
「お。お帰り。ご帰還久しぶりだな。」
「・・ああ。」
適当に返事をしながら、靴を脱ぐ。特に・・言い訳を用意していたわけではなく言葉が見つからない。誤魔化し紛れの返事。
「まあた・・。あぁ、何て返事してると、梓に怒られるぞ。」
「・・あぁ、そうだな。」
「全く。お前は・・。」
彼はそう苦笑しながら、寝るといい階段を上がっていった。彼はパスタを専門とする料理人、朝生伸也。洋グループのリーダーも勤め上げる秀才。どこかクールな一面を持つが、人当たりは柔らかい。俺に良く話し掛けてくれるが、俺が反応がない事を楽しんでくれる一面もある。優しく冷静かつ、リーダーシップも取れるという点で誰からも人望が厚い。その彼が言う梓という人物は、浅木梓という男でその男は・・。
「遅い!!」
帰宅直後とりあえず顔を出すというルールの下、入り込んだリビングで突如怒鳴られた。彼が梓。幼さの残る顔立ちを持ち、誰からも愛されるどこかマスコット的な雰囲気を持つ男。身長も低く、痩せ型。可愛らしい外見とは裏腹に、感情表現もその起伏の激しさも彼の一部だ。梓は、パン部門の主力戦力。
「・・あぁ。」
軽い返事をしながら、床にヘルメットを置きながら、壁にかかるキーケースの扉を開き開いたフックに鍵をかける。ポケットから煙草を取り出し取り合えずとばかりに煙草を口にくわえた。
「ちょっと、何度言わせればいいわけ?あぁ、じゃ返事になってないって何べんもいうだろ?」
梓の怒鳴り声にまた・・ああと返事をしそうになり言葉を飲み込んだ。すると、無言になる。梓にとっては、俺が無視していると感じるらしい。何か他に返事を見つけなければ・・。考えあぐねるうちに時間は過ぎる。言われたことを無視するように、流れる時間を埋めるかのように煙草に火をつけた。
「もー!!僕のいうこと聞いてるのか?!」
「・・あぁ。」
梓の声に答えてしまい・・。いや、応える事は良かったのだが返事のしかたを変えなければならなかった。それに気が着いたのは答えた後であり・・。激昂された。俺自身、身を竦め反省している感じを示していたのだが、どうにも・・見えないらしい。憮然としていて、話を聞いているのかさえ理解出来ないとばかりに捉えられ、ますます梓の熱は上がる。力や体力では到底敵わないと感じているらしく、暴力を振るうことは滅多に無いがペシリと頭を叩かれた。それによりずり落ちた眼鏡。バイクにかけてくるのを忘れた。視界良好だと、時折頭痛がするから嫌なものだ。眼鏡を外し机に置きながら、タバコの煙とともに吐き出した吐息。梓がどんな顔をしているのか見ようと顔をあげると、彼は思いきり膨れながら俺に向け机を拭く布巾を投げつけ勢いよくリビングを出て行った。・・また、怒らせたか。後で謝ろう。というか・・。梓は寝て起きればそんなことすっかり忘れ抜け落ちている。あまりくよくよと物事を考えないのがいいところだろうか。一服が終わり、何となく落ち着きを取り戻す。徐に腰を上げ、階段を上がり自分の部屋に入った。日差しが強まる外の景色を眺めながらベッドに寝転がる。少し・・寝よう。寝てから、洗濯・・して・・。風呂も入ろうか。それから・・。覚束ない考えの中、俺はそのまま意識を失うようにして眠りに落ちた。祖父の笑う顔が・・夢に現れる。俺の言う通り始めから手を出すべきじゃなかったんだといわれているような気がした。